視点を変えて喜びましょう

2024年9月8日主日礼拝
聖書箇所:ピリピ人への手紙2:12-18

イントロ:
 私たちの人生で、時に視点を間違えているために苦しむことがあります。人生を悪い視点で見るととても悪く感じるし、良い視点で見ると良い人生を思えるのです。良い人生だと思っている人は、人生を積極的、肯定的に生きることができます。
 
肯定的に生きれば、精神面だけでなく、肉体的にも健康になります。「人は笑うときに免疫力が活発になる」ということが医学的に研究されています。ですから、楽観論者は病気になりにくいわけです。

ある人が調べて見たら、10の心配のうち、心配してもしなくてもどうしようもならないことが8つはあるそうです。また、残りの一つはひとりでに解決されるそうで、実際には10のうち1つくらいが実際に心配しても良いことらしいです。ですから、どうしようもならないことを心配する。それはなるべく早く辞めるべき習慣でしょう。

肯定論者になるためには、何事も良い方向に考えることです。そして、物事が自分の願うように行かない時にも、それを肯定的に捉えるのです。パウロはこのピリピへの手紙で、「主にあって喜びなさい」と何回か書いています。この「主にあって喜ぶ」とは、主は最善をなしてくださると信じる土台があるからなのです。

ピリピ教会は、パウロとシラスが牢獄に入れられたにもかかわらず、祈り、賛美をしていたときに主の介入があって、看守が救われたことに大きく影響していると話しました(使徒16章)。

つまり、その時は喜べないような事が起こっていても、結果が良くなっていくと信じるのです。つまり、信仰による喜びです。信仰とは真理の上に立たなければ、ただの思い込みです。しかし、真理の上に立つ時に、正しい物の見方なのです。

今日は視点を変えることによって喜びましょうというテーマです。パウロは視点を自分のことではなく、神の国に置きました。それが喜ぶ理由となっていたのです。

クリスチャンには色々な喜びの箱があります。その一つは、福音の働きが進んでいることです。自分には良いことが起こっていなくても福音の働きが進んでいる時に喜ぶのです。そのためには、視点を自分中心から主の働きに移さなければなりません。そうすると、喜べるようになります。

今日は、パウロの喜びを確認して、クリスチャンの視点を学びましょう。

I. 国家の上層部に福音が伝わった

最初に、パウロが牢獄生活をしていることで、福音が世界の中心部分に伝わったことです。パウロは宣教のために捕えられ、結構長い期間牢獄にいました。個人的には牢獄が好きな人はいないですし、クリスチャンであれば牢獄に入れられた時点で、なぜ神様がこんなことを許されるのかと不信仰になりやすいです。また、パウロが牢獄にいる事は教会にとって大きなマイナスのように思います。案の定、パウロに反対する人たちはパウロが牢獄にいることで、彼は神に祝福されていない、と宣伝したと思われます。

しかし、使徒行伝24章以下を読むと、パウロはユダヤ総督やローマの千卒長、そして、アグリッパ王らの前で福音を語ることができたことが書かれています。むしろ、捕まることによって、パウロは通常では福音を語れない人たちの前に立つ事ができたのです。

13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、

親衛隊とは、王を守る特別警察のような人たちです。王の側近ですから、国の上層部と関係がある人たちです。パウロは国家的な犯罪者ということで、国のトップの人たちと会うことができるようになったのです。

ピリピ4:22 聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています。

ここで、カイザルの家とは、ローマ皇帝の家族ではなく、皇帝に仕える人たちのことです。つまり、親衛隊やその家族の中に福音を聞いて主イエスを信じる人たちが起こされていたということです。

パウロはエルサレムで捕まる前までは自由に宣教していました。その意味では牢獄にいることで宣教の範囲は狭くなったでしょう。牢獄にいなければもっと多くの人たちに福音を伝えることができたかも知れません。。しかし、神様は、パウロを通してローマの高官に福音を伝えさせようとしたのです。そのためにパウロが囚人になることを許したのです。

 宣教論からすれば、国のトップに福音を語るとより効果的です。国のリーダーたちがクリスチャンになることで、多くの人が安心して信じるようになるのです。歴史的にキリスト教が浸透した国は、国のトップがクリスチャンであった国が多いのです。ローマ帝国、イギリス、北ヨーロッパ、アメリカもそうです。最近では韓国などもそうです。パウロが牢獄に入る事で、彼には国家リーダーとその家族たちに福音を語るチャンスが与えられたのです。 

ところで、わたしたちが神の計画とか「み心」という時に、前提として「わたしに良いことが起こる」と考えています。ですから、必死に「主のみ心は何か」と求めるわけです。これが「主のみこころや計画とは、わたしが苦しむこと」という事を知ったら、主のみ心を熱心に求める人は少なくなるでしょう。み心や主の計画を求めることは大事なことです。しかし、それが実現しても、自分自身には良い事が起こらないこともあることを知らなければなりません。主のみ心や計画は、私たちの利益よりは、神の計画が広がり進む事であるからです。

 次に、パウロの投獄で別の素晴らしいことも起こっていました。14節を読みましょう。

 14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。

II. 兄弟姉妹が熱心に福音を語るようになった
 パウロが捕まえられたことによって兄弟姉妹たちがより確信を得て、証するようになったとあります。これは不思議です。通常はリーダーが捕まれば、みんな怖くなり、信仰を捨ててしまうように思います。
 
 私たちは、熱心で罪を犯さないクリスチャンはこの世的な祝福を受け、そうでないクリスチャンは祝福が少ないように考えます。この祝福信仰は根本的に間違っていますが、多くの人は宗教に祝福を求めるので、教会にも深く入り込んでいます。旧約聖書を読むと、アブラハム、ヨセフ、ダビデは経済的に祝されたことが書かれています。また、ヨブの話では、神様は祝福したいのだけどヨブに罪があったから試練を与えた。ヨブが罪を悔い改めたから、ヨブはもっと祝福されたと考えてしまいます。しかし、新約聖書は、それらの考えを一掃しています。まず、主イエスは完全な信仰と全く罪のない人生を送りました。しかし、経済的な祝福は受けませんでした。使徒たちやパウロは、熱心な信仰者でした。彼らは罪を全く犯さなかったわけではありませんが、普通のクリスチャンに比べてかなり罪から離れた生活をしていたはずです。しかし、彼らもキリストと同じでした。経済的祝福や安定よりは、試練と苦難の連続でした。クリスチャンの祝福とは、この世的な祝福とは違います。うまく行くから神に愛されているのではなくて、霊的に満たされているから神に愛されているのです。さらに、この世の支配者である悪魔が、熱心なクリスチャンに敵対しています。

 ヨハネ15:18,19もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

  
 パウロの周囲にいた人たちは、このような原則がわかったのでしょう。パウロの受難を見て、クリスチャンが福音のために熱心に生きるとどうなるかの実例を見たのです。キリスト者が受難することは当然のことなのです。先週、熱心な信仰を持つと、ある人たちからは好意をもたれますが、ある人たちからは嫌われるとお話ししました。私たちの苦難はある人たちを励ましますが、ある人たちにはとても愚かに見えるために、時に人生が順風満帆な人たちからは「信仰なんか捨てたら」と助言されるのです。

 人生を考える上で大事な事は、人生とはこの世だけではないという事です。唯物論を信じる人たちは、死んだら終わりです。しかし、聖書は死後にすべての人が神の審判を受けると書いているのです。それで、主イエスはこう言いました。
 
マルコ8:35
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。

 私たちは幸福をどこに見つけるべきでしょうか。もしこの地上がすべてと考えるならば、あと何十年間少しで幸福に生きれるように最大限がんばってください。自分の好きなことやしたいことを全部してください。やり残して後悔しないようにしてください。しかし、死んでも終わりではないと信じるならば、人生を慎重に、緊張感をもって生きなければなりません。クリスチャンも神の前に出るのです。その時に、人生の時間と賜物を何のために使ったのかを問われるのです。

 しかし、私たちの本当の命は天国にあります。それはそのときまでしっかりととってあるのです。そして、天国では死ぬこことがありません。永遠です。その永遠をどう生きるかは、今の人生をどう生き方で決まります。苦難の時に忘れてはいけないことは、今がすべてではないことです。視点を将来行くべき目的地の恵みに移すのです。

 次は、まさしくパウロにとってはかなり辛いことでしたが、彼は福音が前進していたことを喜びました。

III. 反対者によっても福音が語れていた

15 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。

 この人たちは、パウロの入獄の苦しみを増しているとあります。

17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。

 彼らはパウロにとってとんでもない人たちだったのです。彼らはパウロを認めず、パウロを責めながらも、福音を熱心に伝えていたのです。その動機は、競争心でした。福音の内容は正しかったのですが、人格的には悪い人たちでした。しかし、パウロは彼らが自分を攻撃していることは横において、彼らが福音を伝えていることを喜んだのです。

 もちろん、彼は反対され、批判されることで苦しみました。攻撃されて大丈夫な人はいないでしょう。しかし、パウロは視点を主に向けて、福音が語られていることを喜んだのです。この視点を主の向けれるか、自分のことだけに向けてしまうのかは大きな分かれ目となります。

 今、兵庫県知事の権力濫用が日本を騒がせています。現兵庫知事が自分に反対した幹部を懲戒処分にして、その人やそれを告発した人が自殺してしまったのです。権力者の多くは自分の立場安泰が第一です。ですから、反対者や逆らう者を粛清します。これは共産主義や軍国主義の国では今も普通に行われていることです。しかし、日本は民主主義ですから、そんなことは許されません。人道的にも良くないことです。上に立つ以上は攻撃されるのは仕方ありません。牧師は別に上に立っている意識はないですが、しばしば攻撃されます。わたしは心臓が弱いので、攻撃されるとかなり落ち込みます。しかし、パウロは、自分を攻撃している人たちが主の働きに貢献していることで喜んだのです。

 前の教会時代に、わたしを攻撃する人たちが多数いました。多数の人たちはその時どきに変わっていました。ある時はAさんが、Aさんが攻撃しなくなると今度はBさんが、という具合です。問題は、その人たちが教会に熱心であったという事です。役員会で大声をあげて争ったこともあります。わたしの時代に新会堂を建築したことはお話ししましたが、古い会堂の時は役員会が日曜日の午後にありました。役員会をしている部屋に窓があって、その窓が薄くて横が玄関だったのです。ですから、役員会で大声を出すと、玄関を通る人たちに大声が伝わったのです。そこで牧師と役員が大げんかをしているのですから、びっくりして、心配した人もいました。最初は、会計役員でした。その人はわたしの意見にほとんど反対でした。わたしをばかにするような発言も何回もしました。その人と言い争う時は、その人があまりに責めるので、こちらも防衛しなければと声を大きくしました。しかし、今考えると放っておけば良かったと思います。彼はわたしを攻撃しましたが、それ以外では熱心な信徒で、大変な会計奉仕を忙しい仕事をしながらやっていたのです。別に教会を分裂させようとしたり、牧師反対グループを作ってわたしを辞めさせようとしたりする人ではなかったのです。わたしを嫌いだったのか、わたしをバカにしていたのか、その両方だったのかも知れません。

 私たちは人生の中で、いろいろな人に出逢います。神様が出会わせてくださっているわけです。ある人たちは私たちに好意を持ち、ある人たちは私たちを嫌いになるかも知れません。しかし、それはそれで良いのです。欠点のない人間はいないですから、すべての人に好かれるのは無理です。問題は、私たちがどこに視点を持つかということです。その人が神の国に貢献しているならば、そのことを喜ぶべきという視点を持つことです。これは牧師だけではありません。職場や家庭でもそうでしょう。会社のために貢献しているならば、会社は利益を生み出し、全体的に給料が上がります。また、倒産の危機を免れるでしょう。家庭でも、その人と良い関係を継続するならば、他の人が安心します。家庭の平和が保たれるならば、良い証となるのです。

 パウロは視点を神に置く事ができました。彼は人生を自分が得をするかよりも、神が得をするかどうかと考えることができたのです。それはクリスチャンにとって大事なことです。私たちの地上の人生は神の働きのためなのです。私たちの本当の幸福は天国で実現するからです。この世でも幸福になりたいですが、そうならないケースも多々あるのです。むしろ、この世の幸福を求めて、天国での幸福に傷をつけるようなことをすれば愚かです。視点を神の国に向けましょう、それが知恵あることです。

 祈りましょう。
 父なる神様、私たちにパウロという信仰の見本を与えてくださり感謝します。彼はいつも喜んでいましたが、その秘訣は、喜びの箱を人よりもたくさん持っていたからです。彼は自分が苦しくても違う箱を開けて、喜ぶことができました。私たちの喜びの箱が、ただ自分の幸いだけでないように祝してください。彼は違う視点を持っていました。彼の視点は他の人と明らかに違っていました。彼は神の計画を信じ、福音が宣教されることを喜びました。たとえ、自分がそれによって苦難に遭ってもです。心は簡単に傷つけられ、肉体が痛いと辛いです。しかし、視点を変えることができるように助けてください。また、罪の世にあって痛みを避けていく事はできません。地上の不合理や痛みに焦点を置くのではなく、天にある希望を見つめることができるように助けてください。

Let's change our perspective and rejoice
Sunday Worship Service - September 8, 2024
Scripture Reading: Philippians 1:12-18

 There are times in our lives when we suffer because we are seeing things from the wrong perspective. When we view life negatively, it feels harsh, but when we see it positively, life seems good. Those who perceive their life positively can live with optimism and confidence.

 Living with a positive mindset leads to not only mental well-being but also physical health. Medical research has shown that "when people laugh, their immune systems become more active." This is why optimists tend to get sick less often.

 One person found that out of ten worries, eight are things that cannot be controlled, regardless of how much we worry. Another one of those worries tends to resolve itself naturally, leaving only one out of ten that might actually be worth worrying about. Thus, worrying about things we cannot control is a habit we should aim to break as soon as possible.

 To become an optimist, it is essential to always look at things from a positive angle, even when things don’t go the way we want. In his letter to the Philippians, Paul wrote multiple times, "Rejoice in the Lord." The foundation of this joy in the Lord comes from the belief that the Lord is always working for the best.

 Paul spoke to the Philippians about how their faith was influenced by an event where, despite being imprisoned, Paul and Silas prayed and sang hymns, leading to the Lord’s intervention and the salvation of the prison guard (Acts 16).

 This shows that even when situations arise that don’t seem joyful, the outcome can still turn out well. This is the joy that comes from faith. However, faith must be grounded in truth; otherwise, it’s merely wishful thinking. When it is rooted in truth, it becomes the correct way of seeing things.

 Today's theme is about finding joy by changing our perspective. Paul shifted his focus from himself to the kingdom of God, which became the reason for his joy.
Christians have many sources of joy. One of them is witnessing the progress of the gospel. Even if things are not going well for us personally, we can find joy when the work of the gospel is advancing. To experience this joy, we need to shift our perspective from being self-centered to focusing on God's work. When we do that, joy becomes possible.
Today, let’s explore Paul’s joy and learn about the Christian perspective.

I. The Gospel Reached the Upper Echelons of Society
 First, through Paul’s imprisonment, the gospel was delivered to the heart of the world. Paul was imprisoned for the sake of the gospel and spent a considerable amount of time in prison. Nobody, including Christians, enjoys being imprisoned, and when faced with such adversity, it’s easy to fall into disbelief and question why God would allow it. From the church’s point of view, Paul’s imprisonment might have seemed like a major setback. Undoubtedly, Paul's opponents likely claimed that his imprisonment was proof that he was not blessed by God.
 However, as we read in Acts 24 and beyond, Paul had the opportunity to speak the gospel before important figures such as the Roman governor, Jewish leaders, and King Agrippa. By being imprisoned, Paul gained access to an audience that he normally wouldn’t have been able to reach with the gospel.

 Philippians 1:13 states: "As a result, it has become clear throughout the whole palace guard and to everyone else that I am in chains for Christ.”

 The "palace guard" refers to the elite soldiers who served as the emperor's personal guards. Since they were closely connected to the upper echelons of the empire, Paul’s imprisonment allowed him to encounter influential people in the nation.

 Philippians 4:22 also states: "All the saints send you greetings, especially those who belong to Caesar’s household.”

 Here, "Caesar’s household" does not refer to the emperor’s family but to those who served the emperor. This indicates that among the palace guards and their families, there were people who heard the gospel and believed in the Lord Jesus.

 Before Paul’s arrest, he had been freely preaching. In one sense, his time in prison might have limited the range of his missionary work. If he hadn’t been imprisoned, he might have been able to preach the gospel to many more people. However, God allowed Paul’s imprisonment so that the gospel could be proclaimed to the Roman elite. Through his imprisonment, God gave Paul the opportunity to preach to the leaders of the nation and their families.

 From Missiology perspective, preaching the gospel to the nation's leaders is often more effective. When national leaders become Christians, it encourages many others to believe without fear. Historically, many nations where Christianity took root had Christian leaders. This includes the Roman Empire, Britain, Northern Europe, and the United States. More recently, South Korea has followed this pattern as well. By allowing Paul to be imprisoned, God gave him the chance to preach the gospel to the nation’s leaders and their families.

II. Brothers and Sisters Proclaimed the Gospel More Enthusiastically
 Next, let’s look at Philippians 1:14: "Because of my chains, most of the brothers and sisters have become confident in the Lord and dare all the more to proclaim the gospel without fear."

 It is written that because Paul was imprisoned, the brothers and sisters became more confident and began to testify. This is a mystery. Normally, when a leader is captured, everyone becomes fearful and abandons their faith.

 We tend to think that zealous Christians who do not sin will receive worldly blessings, while those who are not as devout will receive fewer blessings. This belief in blessings is fundamentally wrong, yet many people seek blessings through religion, so it has deeply penetrated the church. When we read the Old Testament, we see that Abraham, Joseph, and David were blessed financially. In the story of Job, it is often thought that God wanted to bless him, but because of Job’s sin, trials were given to him. And after Job repented of his sins, he was blessed even more. However, the New Testament completely clears away such notions. First of all, Jesus led a life of perfect faith without any sin. Yet, He did not receive financial blessings. The apostles and Paul were also devout believers. Although they were not entirely without sin, they must have lived lives much more distanced from sin than ordinary Christians. But they were like Christ in this respect too. Rather than experiencing financial blessings and stability, they faced continuous trials and suffering.
Christian blessings are different from worldly blessings. It is not that things go well because we are loved by God, but rather, we are loved by God because we are spiritually fulfilled. Moreover, the devil, who rules this world, opposes zealous Christians.

 John 15:18 "If the world hates you, keep in mind that it hated me first.19 If you belonged to the world, it would love you as its own. As it is, you do not belong to the world, but I have chosen you out of the world. That is why the world hates you."

 The people around Paul understand this principle. By observing Paul's sufferings, they saw an example of what happens when Christians live zealously for the gospel. It is natural for believers to endure suffering. Last week, I mentioned that having a fervent faith can win favor from some people, but also incite hatred from others. Our struggles may encourage some, while others, viewing our lives as foolish, may advise us to "give up on faith," especially if they are living comfortably.

 What’s important to remember about life is that it doesn't end in this world. For those who believe in materialism, death is the end. However, the Bible teaches that everyone will face God's judgment after death. Jesus said this:

 Mark 8:35"For whoever wants to save his life will lose it, but whoever loses his life for me and for the gospel will save it."

 Where should we find happiness? If this world is all there is, then by all means, strive as hard as you can to live happily for the next few decades. Do everything you want, fulfill all your desires, and leave nothing undone to avoid regrets. However, if you believe life doesn't end with death, you must live carefully, with a sense of tension. Even Christians will stand before God, and at that time, we will be asked how we used our time and gifts.

 But our true life is stored up in heaven. It is kept safe for that time, and in heaven, there is no death—it's eternal. How we live that eternity depends on how we live now. In times of hardship, we must remember that the present is not everything. We shift our focus to the grace of our future destination.

 For Paul, the next point was undoubtedly difficult, but he rejoiced because the gospel was advancing.

III. The Gospel Was Preached Even by Opponents

 Philippians 1:15 "It is true that some preach Christ out of envy and rivalry, but others out of goodwill."

 Some people were increasing Paul's suffering in prison.

 Philippians 1:17 "The former preach Christ out of selfish ambition, not sincerely, supposing that they can stir up trouble for me while I am in chains."

 These people were a great burden to Paul. They did not acknowledge Paul and criticized him while zealously spreading the gospel. Their motivation was competition. Although the content of their preaching was correct, their character was flawed. Nevertheless, Paul put aside their attacks on him and rejoiced that they were spreading the gospel.

 Of course, being opposed and criticized was painful for him. No one can remain unscathed by attacks. However, Paul directed his perspective toward the Lord and rejoiced that the gospel was being preached. Whether we can focus on the Lord or only on ourselves becomes a key distinction.

 Currently, the abuse of power by the governor of Hyogo is causing a stir in Japan. The current governor punished an executive who opposed him, and both that person and the whistleblower committed suicide. Many in power prioritize their own security, and as a result, they purge those who oppose them. This is common in communist and militaristic countries, but in Japan’s democracy, such actions are unacceptable and inhumane. Leaders, by virtue of their position, will inevitably face attacks. Pastors, though not necessarily seeing themselves as being in a position of authority, are often attacked too. Personally, my weak heart makes it hard to cope with such attacks, and I become quite depressed. But Paul found joy in the fact that those attacking him were contributing to the Lord's work.

 In my previous church, there were many who attacked me. These people changed over time—when person A stopped attacking me, person B would take their place. The issue was that these individuals were passionate about the church. Sometimes there were heated arguments in the board meetings. I've shared before that a new chapel was built during my time, but back when we still had the old chapel, board meetings took place on Sunday afternoons. The room had a thin window, and the entrance was next to it. So, when people raised their voices in the meeting, those passing by the entrance could hear. Imagine the shock when they heard the pastor and board members fighting loudly. It was troubling for some. Initially, the treasurer was the one who disagreed with me most. He often made remarks that belittled me. In arguments with him, I often raised my voice in defense because his criticism was relentless. But in hindsight, I wish I had just ignored it. Though he attacked me, he was a devoted church member and managed the church’s finances while balancing a busy job. He wasn’t trying to split the church or form an anti-pastor group to oust me—perhaps he simply disliked me or thought little of me, or both.

 In life, we encounter various people. God is the one who brings them into our lives. Some people will favor us, while others may dislike us, and that's fine. No one is perfect, and it’s impossible to be liked by everyone. What matters is where we place our focus. If someone is contributing to the Kingdom of God, we should rejoice in that. This applies not just to pastors, but also in the workplace and at home. If someone contributes to the company, the company prospers, and this benefits everyone. It may even prevent bankruptcy. In families, maintaining good relationships brings peace, which serves as a good testimony.

 Paul could focus on God. He viewed life not in terms of personal gain but whether God gained from it. This is essential for Christians. Our earthly lives exist for God’s work, and our true happiness will be realized in heaven. While we also seek happiness in this life, there are many cases where that may not happen. In fact, it would be foolish to sacrifice eternal happiness for fleeting happiness here. Let us focus on the Kingdom of God—that is wisdom.

 Let us pray:
 Father God, we thank you for giving us the example of Paul, a model of faith. He always rejoiced, and the secret was that he had more than one source of joy. Even in his suffering, he could open another "box" of joy. May our source of joy not be limited to our own happiness. His perspective was different from others; he believed in Your plan and found joy in the spread of the gospel, even if it brought him suffering. It is easy for our hearts to be wounded and for our bodies to feel pain. But help us to change our perspective. In this sinful world, we cannot avoid pain, but let us not focus on the injustices and pains of this world. Help us to focus on the hope we have in heaven. In Jesus’ name, Amen.