力ある神、永遠の父


2025年12月14日待降節第三主日礼拝

― 神ご自身が来られた!救い主 ―

約2700年前、混乱と不安に満ちた時代に、預言者イザヤは一つの希望を語りました。

「ひとりの子どもが、私たちのために生まれる。その名は、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。」

この言葉が特別なのは、生まれてくる一人の人が、はっきりと「神」と呼ばれている点です。

「力ある神(エル・ギッボール)」とは何か

イザヤは、このメシアを「力ある神」と呼びました。これは「神に助けられた偉大な人」や「神に選ばれた英雄」という意味ではありません。「力ある神」という表現は、旧約聖書では神ご自身にしか使われない言葉です。

つまりイザヤは、このメシアは神に近い存在なのではなく、神ご自身が来られる方であると語っているのです。キリスト教が語るイエス・キリストは、単なる教師や道徳家ではなく、神ご自身が人として私たちの中に来られた方です。

それでも「父なる神」と同一ではない

ではなぜ、神ご自身でありながら「父なる神」と同一ではないのでしょうか。キリスト教では、神は父・子・聖霊という三つの位格を持つ、一つの神として理解されます。メシアは、父なる神とは区別されつつ、本質においては完全に神ご自身である存在です。

「永遠の父」という言葉の本当の意味

イザヤがメシアを「永遠の父」と呼んだのは、メシアが父なる神そのものになるという意味ではありません。当時の世界で「父」とは、家庭の父親だけでなく、民を守る良い王、人々を導く信頼できる指導者、人生に責任を持つ保護者を意味していました。

つまり「永遠の父」とは、このメシアが神ご自身としての力をもって、人々を守り導き、その人生に永遠に責任を負う王であるという宣言です。

強さとやさしさを完全に備えた方

このメシアは、力ある神(エル・ギッボール)として人生の闇や悪、恐れに打ち勝つ力を持つ方であり、同時に永遠の父として弱さを抱える人を見捨てず、抱きしめる方です。神であるからこそ、現実を変える力を持ち、同時に人を裁くためではなく、救うために近づくことができるのです。

苦しみを通られた神

この神は、人間の苦しみを遠くから眺める存在ではありません。痛みや孤独、不安や裏切りを、ご自身の人生として通られました。だからこそ、この方の力は冷たくなく、この方のやさしさは軽いものではありません。苦しみを知った神が、なお共にいてくださる。それがキリスト教の語る希望です。

私たちへの適用 ― 今日を生きるために

では、このメシアは、今を生きる私たちにとって何を意味するのでしょうか。

私たちは日々、目に見えない戦いの中で生きています。不安や恐れ、人間関係の難しさ、自分の弱さ、思い通りにいかない現実、病や老い、将来への心配。そうしたものは、努力や前向きな気持ちだけでは乗り越えられないことも多くあります。

「力ある神」であるメシアは、そうした現実の中で、私たちに「一人で立て」とは言われません。むしろ、私たちの弱さの中に神の力が働くことを教えてくださいます。自分が強くなれなくても、神は強い。そのことに希望があるのです。

同時に「永遠の父」であるメシアは、人生に失敗したと感じる時や、道が見えなくなった時にも、私たちを見捨てません。人に頼れなくなっても、孤独の中に落ち込んでも、この方は責任をもって共にいてくださいます。良い時だけでなく、苦しい時にも離れない。それが「永遠」という言葉に込められた意味です。

信仰とは、強い人が持つ特別なものではありません。むしろ、支えが必要な人のために与えられたものです。力ある神であり、永遠の父であるメシアは、今も私たちの人生の中におられ、静かに、しかし確かに支えておられます。

クリスマスが伝えていること

クリスマスは、人が神に近づいた日ではありません。神ご自身が、人のところへ来られた日です。完全でない人間の現実の中に、力と愛を併せ持つ救い主が来られた。それがイザヤの預言であり、新約が証しし、クリスマスが宣言する福音(良い知らせ)なのです。