とりなしに働く聖霊
2026年1月25日 主日礼拝/創世記18章
今年は、旧約聖書に描かれている「聖霊の働き」を、時間をかけて見ていきたいと考えています。聖霊というと、新約聖書や教会の中の話だと思われがちですが、聖書によれば、神は初めから人の心に働きかけ、人を導き、動かしてこられました。今日は、創世記18章に登場するアブラハムの物語を通して、人が他者のために祈るように導かれていく過程を見ていきます。
旧約聖書には、新約聖書のように「聖霊」という言葉が体系的に説明されているわけではありません。そのため、旧約時代には神の霊の働きが限定的だったように感じるかもしれません。しかし実際には、神は旧約の時代から、人の心に語りかけ、考えを揺さぶり、行動へと導いてこられました。新約では、聖霊が信じる者の内に常に住むと教えられていますが、旧約では、神の目的のために、特定の人に特別な形で働く場面が多く描かれています。
創世記18章では、アブラハムのもとに三人の訪問者が現れます。彼らは単なる旅人ではなく、神の使いであり、神ご自身の臨在を伴う存在として描かれています。彼らはまず、長年待ち続けてきた子どもが与えられるという希望の知らせを伝えます。その後、神はアブラハムに、ソドムとゴモラという町の現状を知らせます。その町には、不正や暴力が満ち、人々の叫びが神に届くほど深刻な状態にありました。
ここで注目したいのは、神が一方的に裁きを下す前に、アブラハムにその状況を知らせ、祈る余地を与えているという点です。ソドムには、アブラハムの甥ロトが住んでいました。アブラハムにとって、それは遠い出来事ではありませんでした。大切な家族が関わる問題だったのです。そこでアブラハムは、自分の利益のためではなく、町の人々と甥のために、神に向かって祈り始めます。これが「とりなしの祈り」です。
とりなしの祈りとは、簡単に言えば、自分以外の誰かのために心を向け、願いを神に向けることです。特別な宗教的技術ではありません。私たちも、誰かの苦しみや不正を知ったとき、「何とかならないだろうか」「このままでよいのだろうか」と心が動かされることがあります。その「放っておけない」という感覚こそが、聖書が語る神の霊の働きの一つなのです。
アブラハムは祈りの中で、「もし町に正しい人が50人いたら、滅ぼさないでください」と願います。神はその願いを受け入れます。しかしアブラハムは、もしかすると50人もいないかもしれないと考え、45人、40人、30人、20人、10人と、何度も祈りを重ねていきます。この姿は、一見すると条件交渉のようにも見えます。しかし、この場面の本質は、数の問題ではありません。
重要なのは、祈りの過程の中で、アブラハム自身が神と深く向き合っていったことです。彼は祈りながら、自分の小ささを認め、「私はちりや灰にすぎません」と語ります。同時に、神は正しく、憐れみ深い方であると信頼し、大胆に願い続けます。ここに、へりくだりと大胆さが同時に存在しています。この二つは矛盾するように見えますが、聖書は、神の霊に導かれるとき、人はこの両方を持つようになると教えています。
最終的に、町は滅ぼされますが、ロトは救い出されました。アブラハムの願いがすべてそのまま実現したわけではありません。しかし、神はアブラハムの祈りを無視したのではなく、神ご自身の最善の形で応えられました。ここから私たちは、祈りとは「自分の思い通りの結果を得るための手段」ではないことを学びます。
祈りの本質は、結果よりも関係とプロセスにあります。祈る中で、人は神の考え方に触れ、自分の視点が少しずつ変えられていきます。とりなしの祈りとは、他者のために祈りながら、実は祈る自分自身が整えられ、成長していく道なのです。
私たちが誰かのことを思い、心が重くなったり、気になって仕方がなくなったりするとき、それは偶然ではありません。その思いは、神が私たちを、ご自身の働きの中に招いておられるサインかもしれません。祈りとは、問題を解決するためだけの行為ではなく、神のご計画に参与し、神と共に歩む生き方です。
とりなしに働く聖霊は、私たちの心を静かに動かし、他者のために祈る場所へと導きます。そしてその祈りの中で、私たちは神をより深く知り、自分自身も変えられていくのです。

