怒りではなく、救いに
2025年11月23日
聖書箇所:
1テサロニケ5:9
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
5:10
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
イントロ
神さまを正しく知ることは、私たちの人生に喜びと力を与えてくれます。
私たちは誰でも、こんな時があります。
- 心が重い
- ネガティブになる
- 不安が頭から離れない
- 人を許せない
- 集まり(礼拝)に来るのがしんどい
- 「自分なんてダメだ」と思う
- 人間関係で深く傷つく
- 良いとわかっていても、そう生きられない日がある
これは、神さまを長く信じて生きている人でも避けられません。どんな人にも起こります。
私自身、最近になって「自分はそんなに有能ではないな」と改めて思わされました。それは、ある意味ではへりくだりを教えられる良いことでもありますが、同時に心の中では「やっぱり自分はダメだ」という声も聞こえてきます。心が重くなり、ネガティブになり、不安に支配されそうになったこともあります。
でも、そのような時に、聖書のことばが心に光をともしてくれました。
神さまにとって大事なのは「どれだけできるか」ではなく、
**「あなたが、あなたとしてそこにいること」**だということ。
神さまはいつも共におられ、
「もっと頑張れる人」ではなく、「今のあなた」に目を向けておられる。
今日の箇所は、そのことをとてもわかりやすく教えてくれる場所です。
最初に9節を見ていきましょう。
Ⅰ.怒りではなく、救いに
1テサロニケ5:9
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、
主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
ここにはっきりと、こう書かれています。
神さまは、私たちが「怒り」を受けるように決めたのではない。
むしろ「救い」を受けるように決めておられる。
私たちは「偉大な存在」を前にすると、どうしても萎縮してしまいます。
- 神さまはとても厳しい
- いつも高い基準を求めている
- できない人には不満でいっぱいで、いつも怒っている
そんなイメージを持ってしまうことがあります。
まるで、怖い父親や、要求の多い上司のように。
でも、聖書が語る神さまは、
「裁くため」ではなく、「救うため」に人間を造られた方です。
◆ 正義の怒りと、私たちの不安
私たちも、悪いニュースや戦争、理不尽な事件を見ると、心の中に怒りが湧いてきます。
- なぜ弱い人が苦しまなければならないのか
- なぜ悪い人がのうのうと得をしているのか
それは、私たちの中に**「正義感」**があるからです。
そしてこの正義感は、聖書によれば、神さまから来たものです。
だからこそ、こんな疑問が出てきます。
神さまが完全な正義を持っているなら、その裁きは私たちに向かないのだろうか?
たしかに、ほとんどの人は殺人や大きな犯罪は犯さないでしょう。でも、
- 嘘をついたことがある
- 心の中で人を見下したり、責めたりしたことがある
- 自分さえよければと考えたことがある
そういうことは、誰にでもあります。
◆ 「良いことが悪いことを帳消しにする」は本当か?
宗教の多くはこう言います。
「悪いことをしても、それ以上に良いことをすればいい」
でも、よく考えると、それは成り立ちません。
例えば、人を殺した人が、そのあとたくさんの良いことをして、多くの人を助けたとします。
では、家族を奪われた側はこう言えるでしょうか?
「あの人はいいこともいっぱいしたから、全部チャラでいいですよ」
そんなことは言えません。
私たちでさえそうであるなら、
完全な正義を持つ神さまが、「悪いことは見なかったことにしよう」とは言えないのです。
◆ 神さまが選んだ「救いの方法」
では、どうしたらいいのでしょうか。
神さまは、「良いことをたくさんしなさい」という道ではなく、
「イエス・キリストによる道」 を用意されました。
エペソ1:7
この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。
これは神の豊かな恵みによることです。
イエスは「いい人だったのに、かわいそうに十字架で殺された人」ではありません。
イエスは、本来なら私たちが受けなければならない「正義の裁き」を、代わりに受けてくださった方です。
◆ 「定めた」ということばの意味
9節にあった、
「御怒りではなく、救いを得るようにお定めになった」
ということばは、
「運命的に縛った」という意味ではありません。
むしろ、
- あなたは「見捨てられた存在」ではない
- あなたは「怒りの対象」として見られていない
- 神さまは、あなたを「救いの側」に置いておられる
という、神さまからの安心のメッセージです。
当時この手紙を受け取った人たちは、迫害や苦しみの中にいました。
- 「なぜ自分の人生にこんなことが起こるのか」
- 「神に見放されたのではないか」
そう感じる人も多かったはずです。
パウロは、そんな人たちに向かってこう言っています。
「あなたは神の怒りの対象として、人生を歩んでいるのではない。
神さまは、あなたを救いの中に置いておられる。」
これは、ここにいる私たち一人ひとりにも向けられている言葉です。
◆ 聖書が言う「救い」とは?
「救い」と聞くと、「死んだら天国に行けること」とだけ思うかもしれませんが、聖書が語る救いはもっと広い意味を持っています。
- 罪悪感からの解放
- 過去の傷からの癒し
- 孤独からの回復
- 生きる意味・目的の発見
- 神と共に生きる人生のスタート
つまり、人生そのものが変えられていくことです。
Ⅱ.主とともに生きるために(10節)
次に10節を見ます。
主が私たちのために死んでくださったのは、
私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
ここでの「目ざめていても、眠っていても」というのは、
「起きている時も、寝ている時も」というだけでなく、
- 元気な時も
- 弱っている時も
- 前向きな時も
- 祈れないほど疲れている時も
- 信じられる時も
- 心が揺れている時も
人生のあらゆる状態を含んでいます。
◆ 問題なのは「状態」ではなく、「目的」
私たちは、自分の状態が悪いときに、こう思いがちです。
- 「もう自分はダメだ」
- 「こんな自分を神さまが喜ぶはずがない」
- 「もっとちゃんとやれていたら…」
でも、10節はこう言っています。
イエスが私たちのために死んでくださった目的は、
「良い状態の私」だけを愛するためではなく、
どんな時でも「一緒に生きる」ため。
- 調子の良い日も
- 心が折れそうな日も
「主とともに生きる」ということが大事だと、聖書は語っています。
◆ 「もっと頑張れ」の世界と、福音の世界
世の中の多くのメッセージはこうです。
- いつも頑張り続けなければならない
- 成果を出せる人だけが価値ある人
- できない人は置いて行かれても仕方がない
しかし、聖書のメッセージは、まったく逆方向からやってきます。
あなたが弱っている時も、
信じきれないでいる時も、
立ち上がれないほどつらい時も、
「私はあなたと共にいる」と語りかける神がいる。
◆ 恵みは「追い立てる力」ではなく、「立ち上がらせる力」
私自身、ときどきこんなふうに考えてしまいます。
- 「自分はもっとできるはずだ」
- 「もっと働けるべきだ」
- 「もっと良い牧師であるべきだ」
でも、そう考えれば考えるほど、心が重くなり、不思議と力が出なくなります。
なぜでしょうか?
「自分を責める声」には、命を与える力がないからです。
どれだけ自分を責めても、心は前に進めません。
そんなとき、方向を変えます。
- 自分の足りなさではなく、イエスの恵みに目を向ける
- 「できている自分」ではなく、「そのまま愛されている自分」に目を向ける
「主は、よくできる私だけでなく、どんな時でも私を愛してくださっている」
「私が弱い時、倒れそうな時にも、共にいてくださる」
「強いからではなく、弱さの中で主に頼る時、そこにこそ神の栄光が表れる」
そう思いながら主を賛美していると、
不思議と内側から力が湧き上がってくるのです。
恵みは「もっとやれ」と追い立てる力ではなく、
「もう一度立ち上がろう」とささえてくれる力です。
恵みは「責める声」ではなく、
「私はあなたと共にいる」という招きの声です。
だから、心の中の「口癖」を変える必要があります。
「もっと頑張るべきだ」ではなく、
「主よ、私は弱いです。でも、あなたは私を愛しておられます。」
この一言の中に、神さまの力が流れ込んでくるのです。
結論
今日の二つの御言葉から、こうまとめることができます。
- 神さまの願いは、あなたを裁きで終わらせることではない。
- 神さまはあなたを「怒りの側」ではなく、「救いの側」に置いておられる。
- そして、目的はただ「助けること」ではなく、「一緒に生きること」。
- あなたの状態がどうであっても、「共にいる」と言ってくださる方がいる。
「定めた」とは、あなたを運命で縛ることではなく、
あなたを神さまの方へ、救いと回復の方向へと導く神の決意です。
だから、
あなたの希望は、失望に終わらない。
祈り
天の父なる神様。
今日、聖書のことばを通して、
あなたが私たちを「裁き」ではなく「救いの中」に置こうとしておられることを教えてくださり、ありがとうございます。
私たちはときどき、自分を責め、弱さを見て落ち込み、
「もっとできたはずだ」と自分を追い込んでしまう者です。
しかし、そんな私たちに向かって、
あなたは怒りではなく、恵みと希望を差し出してくださる方であることを覚えます。
どうかこの真実が、私たち一人ひとりの心の中心に深く根を下ろしますように。
自分の努力や強さではなく、
イエス・キリストの恵みの上に立つ歩みへと導いてください。
自分を責める心には平安を、
不安の中には希望を、
弱さの中には力を、
そして、日々の歩みの中に「あなたと共にいる」ことの喜びを与えてください。
その恵みに応えて、
毎日、あなたのことばを信頼して歩む者とならせてください。
主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。


