荒野に水をわき出させ
音声メッセージ
2024年1月7日
聖書箇所:イザヤ書 43章14~21節
イントロ
時代とは継続しますが、いつも発展、向上するわけではありません。
その理由は、心の問題ではないかと思います。勇気とチャレンジのあった心がいつの間にか、安定志向となり、変化を好まなくなり、チャレンジをしなくなります。昔のやり方がうまく行くと、それをし続けます。形だけ何とかすれば、前のようにうまく行くと考えます。しかし、実際はそうではありません。
荒野では神様だけを頼りに生きていたイスラエルでしたが、カナンの土地に入り、自分たちの力で生きれるようになると、彼らの心から勇気とチャレンジが消え、神様から離れてしまいました。
クリスチャンに一番大切なのは、救われている喜びです。これが、主のために奉仕する力となり、主の栄光を表す力となります。
聖書、祈り、聖餐式はこれを思い出す霊的な道具です。主イエスが誰のために地上に降りて来られたのか、を考える時私たちの心は感動と喜びがあふれます。神は私たちを救うために、多くの犠牲を払われました。
今の時代は他人のために少しでも犠牲を払いたくない時代です。地球温暖化対策も格差社会も自分以外の人のために犠牲をしたくない、という思いがある限り無理です。主は、ご自身に敵対している私たちのために、飼い葉おけで生まれて下さいました。これは貧しくなるという事です。次に、ナザレに住んでくださいました。これは、劣悪な環境に生きるという事です。そして、十字架にかかってくださいました。これは、苦痛とみじめさを体験するということです。神の愛は私たちのためにこれらの犠牲を払ってくださったのです。
神が私たちを愛する理由は創造主だからです。肉親の親でも、自分の子供だからという理由で愛します。ましてや、神が自分が計画し、この世に生まれさせた子供に対してはどれほどの愛を持っているでしょうか。私たちは神にとってかけがえのない存在であるという事を忘れてはいけないのです。全ての自信と希望を失っても、決して失われないものは神の愛なのです。
14 あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。
イスラエルはバビロンに滅ぼされ全てを失いました。国も、神殿も、民族の誇りも失いました。しかし、失わなかったものがあります。それは神の愛です。22節によれば、この愛は無条件の愛です。これに反して、この世の愛は条件付きです。それは、無条件の愛は難しいからです。
愛は不安定です。離婚率の高さは、そのまま愛を維持することがどれほど難しいかを教えています。肉親の愛も変化します。友情も長続きしません。ですから、私たちはありのままで生きられません。相手の気に入られるような努力をいつもします。そして、疲れ果てます。しかし、神に対しては気に入られる努力は必要ありません。神の愛は変わらないからです。
15 わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。
次に、神は王です。王は主権を持っておられる方です。私たちはオーナーではなく、マネージャーです。当時のイスラエルの王たちは、ダビデも含めてオーナー社長ではなく雇われ社長たちでした。それを知ることが大切です。オーナーは黒字を出すことに頭を使い、マネージャーは忠実であれば良いのです。
ある兄弟と話す機会がありました。彼は天国とは恐れがないところだ、と言いました。人はみな恐れを持って生きている。彼はお店を経営しています。彼は以前には会社がどうなるか、いつも恐れていたそうです。しかし、最近は恐れがないそうです。このお店の経営者は神である。神が全てを支配しておられる。神に喜ばれるならば、このお店は繁盛し、神の御心でなければお店はつぶれる。しかし、たとえ自分が悪くてこのお店がつぶれても、神は私に素晴らしい計画をもっている、ということが自然に信じれるようになったと言っていました。それ以来彼は、仕事の事を気にせずに働けるようになったそうです。恐れは自分が無理にオーナーになろうとするから起こります。
経済を恐れ、人間関係を恐れ、将来を恐れ、死を恐れる、恐れがないところが天国であり、その天国の恵みは、主イエスを信じる者に与えられているのです。他の聖書箇所にはこうあります。
1ヨハネ4:18
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
次に、神は新しいことをされるお方です。
18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
神は、荒野の中に新しい道を開くお方です。
新型コロナウイルスの世界的な蔓延によって、全てが変わったといっても過言ではないでしょう。人類は、今後新しい敵と戦わなければなりません。私たちの考え方をポストコロナとしなければなりません。過去の固執すれば、新しい事をすることができません。過去は未来を作ることができません。主イエスが来られた時も、過去のこだわる人達はイエスを拒絶しました。イエスは言われました。「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れるべきである」と。過去は良い思い出でにして、現在に生きなければなりません。現在は未来と繋がっているからです。
イスラエルの過去は良いものでした。ダビデ、ソロモンの時代は良かったのです。しかし、ヒゼキヤの時代に、アッシリアによって北王国は滅びました。そして、その後ゼデキヤの時代にバビロンによって南王国が滅ぼされました。イスラエルは捕囚の民としての奴隷の生活を強いられました。しかし、神はその中でも共にいてくださり、イスラエルに新たな計画を実現されました。
20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
主は荒野を水の溢れる地に変化させることができるお方なのです。荒野とは実は砂漠のようなところなのです。この世は実は砂漠のように、道があったと思ったら風が吹いて消えてしまう、どこに向かえば良いのかわからないような状態なのです。コンパスも地図も役に立ちません。いつも神様の声を聞き続けならば、迷い続けてしまうのです。神は、イスラエルを滅ぼしましたが、決してイスラエルを見捨てたわけではありませんでした。
私が主を心から信じた時は、心の中で主の言葉が何度も反復された時です。そんな経験をしたことがなかったのですが、その時に主が私に語りかけていることを知ったのです。その言葉は「私は決してあなたを捨てない」という言葉です。私はその時大学生で、なんでも頑張ればできる時時代でした。良い就職、良い結婚、良い人生を自分の力で作り出せる状態にいました。しかし、心の中には不安があり、そんな人生を送っても決して満足しないだろうという虚しさがありました。神を信じる気持ちになって教会にはいきましたが、そこの人間関係には疲れていました。神様=教会だったので、教会がつまらなくなったので自然と足が遠のきました。しかし、ある日礼拝の中で神はご自身が確かにいて、私の神であると教えてくださったのです。神が実際におられることだけでも驚きでしたが、その神が私を愛していると知ったので、私の人生は全く変わってしまったのです。
私はこの与えられた人生を神と共に歩むことを決めて、毎週教会に行くようになりました。神様との歩みに必要ないと思うものは全部切り捨ててしまいました。大学での経営学もゴルフ部もノンクリスチャンの友人たちも。それは、神が聖なるお方だからです。聖とは罪と関わりを断つということですが、その言葉はまた二つの世界、罪の世界と神の世界の両方には所属できないということです。
神様がイスラエルに教えたかったことは、このことでした。あなたは、聖なる神に所属する民なのだから、神と共に生きる道を選び続けなさいということです。
神は私たちが幸福になることを望んでおられます。しかし、この世のシステムの中に巻き込まれていくことは望んでいないのです。神の与える幸福とはこの世の人たちが求める幸福像とは違います。神の与える幸福は聖なる人生です。神を礼拝し、神と共に歩み、良い人格を身につけることなのです。
21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。
私たちは神の栄光を表すために造られました。神の栄光とは、神の姿を私たちを通して人に知らせることです。それは、私たちが神の言葉に聞き従うことで可能です。また、私たちが変化することで神の栄光が現れます。罪の世界ではなく、神の世界で生きるならば神の栄光が現れます。
また、神の栄光は救いに現れています。救いとは神がどれほどあわれみ深いかという神の栄光が現れることなのです。天国に行った時にしたくてもできないことは伝道です。そこには未信者はいないのですから。主は宣教を喜ばれます。世界の人たちの魂が救われること。そこに日本人も含まれています。天国の住民の中で一番少ないのは日本人だと言われています。しかし、神は私たちを救われました。これは、他に主の救いを受けるべき人が多くいることを教えています。
青年たちは将来の教会です。青年は難しいです。年代が違うからです。傷ついているからです。しかし、青年一人が救われると同じ世代の人を救いに導くことができます。年寄り牧師のメッセージは理解できなくても、同じ世代の人のメッセージは心に入ります。ですから、青年が教会に来るように祈らなければなりません。
そして、コミュニティです。なぜ、コミュニティが大切ですか?私たちは霊の世界に生きていません。目に見える世界に生きています。では、目に見える姿で神の栄光を表さなければなりません。教会に愛がなければ、人々は「教会の中の人たちは神を愛していないのだ」と思うでしょう。
神の栄光を表すことは、神を愛することであり、神を愛することはイエス御自身が頭となられた教会を愛することです。
しかし、私たちに神の栄光を表す力はありません。私たちの内側におられるお方の力がそれをするのです。
ゼカリヤ書4:6すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。
これはこのイザヤの預言の成就する時の言葉です。バビロンからの帰還したイスラエルに対して、荒廃されたエルサレムで呆然とたたずむしかありませんでした。彼らには復興する力はとてもなかったのです。しかし、主は当時のイスラエルのリーダーである総督ゼルバベルに対して、あなたの力ではなく、私の力でそのことを成す、と言われたのです。
この言葉は砂漠のような人生で立ち往生している私たちへの言葉でもあります。人間の力ではなく、神の霊によって事はなるのです。このゼルバベルは私であり、あなたなのです。神は今も荒野の中に水をわき出させるお方です。それは神ご自身の力によるのです。
祈りましょう。