福音の力

福音の力 音声メッセージ


2023年12月31日
聖書箇所:1ペテロ2:9
9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

イントロ:
 私達は何を信じるかによって、人生を変化させることができます。神を信じるならば、神の力を体験することができるでしょう。聖書の言葉を信じるならば、聖書の奇跡が人生に起こってくるのです。
 私達は人生で何を信じるか決めなければなりません。神を信じて神の声を聞くか、人を信じて人の声を聞くかです。
 人の声を聞くならば、私達の人生はとても不安定なものとなります。人の声は良く変わるからです。しかし、神の言葉を聞くならば、人生は安定します。神のことばは変わらないからです。 
 神の言葉は私達の過去を癒し、現在に力を与え、将来に祝福を与えます。賛美とは、神の言葉とその意味を歌うことです。歌うことによって自分に神の言葉を言い聞かせ、信仰を強くしていきます。
 今日は、神の言葉である福音が信じる者にどのような力を与えるかを共に考えましょう。
 
I. 内側が変化する力
 福音は、私たちの内側を変えていきます。それはまず、私達のアイデンティティが変わるからです。福音は自分が誰なのかを教えます。そして、人生で何をすべきなのかを教えるのです。
 今日のペテロの言葉で、もっともインパクトのある言葉は、選ばれたという言葉でしょう。神の言葉は、私たちが選ばれた者であることを教えるのです。
 選ばれていることを確信することによって、内側にある恐れ、コンプレックスが消えていきます。
 選ばれるということは、優越感に浸るためではありません。選ばれているということは、自分が神の祝福の中にいるということを確信するためなのです。
 多くの人が不安と恐れを持つのは、選んでもらおうと一生懸命だからです。
 人は生まれてから、自分の価値を認めてもらおうと頑張ります。赤ちゃんは泣くことでアピールします。
 子ども時代は親から、学校時代は先生や同級生から、そして、大人になったら周囲の人たちや社会から、選んでもらおうと必死なのです。偉くなって、お金をためて、優雅な生活ができれば、選ばれたことになるのです。
 私達はいつも選んでもらいたくで一生懸命です。
 しかし、神はすでに私達が創られる前から私たちを選ばれたのです。神は私たちを幸せにするために選んだのです。
 神は私たちが何か偉いことができるから選んだのではありません。それであれば、クリスチャンとは、社会でトップクラスの優秀集団であるはずです。では、なぜ私たちは選ばれたのでしょうか?それは、神の偉大な愛を知らせるためです。
 神の愛は絶対愛です。人間の愛は相対愛です。相対的は変化します。しかし、絶対愛は変化しません。神は選んだ者を愛し続けるのです。
 絶対愛は安心を与えます。相対愛は不安を与えます。「今は愛されているけれども明日はどうなるかわからない。」「あの人に嫌われたらどうしようか?」恐れ、不安になります。
 あるカップルがいました。とても妻はとても美しい女性でした。夫は結婚前に冗談で、「私はこの女性が美しいから結婚する」と言っていました。この言葉を妻は覚えていました。ある時、妻は重い病気にかかりました。顔の病気でした。顔がだんだんとゆがみ始めました。しかし、夫は長い出張でその事を知りませんでした。妻は夫が結婚式で言った言葉を思い出しました。多分夫は病気でゆがんだ私の顔を見たら、幻滅して離婚を言い出すだろう。それなら、夫のいないうちに家から出て行こう。そして、妻は出て行ってしまいました。夫が帰ってくると妻はいませんでした。夫は妻を捜しました。家から病院の薬が見つかり、病院に出かけてすべてを悟った夫は、妻に手紙を書きました。「私は結婚式で誓ったように、たとえあなたがどんなに病んでもあなたを愛しています」と。
 絶対的な愛とは、相手がどんなになっても変わらない愛です。これが神の愛なのです。
 神は私たちを救うために、イエス様を地上に送ってくれました。私達はイエス様を送ってくれと頼んだでしょうか?神が愛ゆえにイエス様を送ってくれました。じゃあ、私達はイエス様に感謝し、神様に感謝したでしょうか?いえ、そんな救い主は必要ないといって無視していたのです。
 聖書は私達が罪人であったときに、イエスが十字架にかかったと教えています。
 ローマ5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
 罪人とは悪人のことです。悪人は善をしてもらっても感謝さえしません。悪人は悪をしたいのです。しかし、イエス様は十字架にかかっただけでなく、私たちに聖霊を送ってくださり、聖霊によって十字架の意味がわかるようにしてくださったのです。
 神の愛は相手の応答によっては変わりません。ですから、私達は安心できるのです。
 私たちは愛される事を人に求める必要がないのです。愛してもらわなくても、選んでもらわなくも良いのです。神がすでに私達を愛し、選んでおられるからです。
 次に、私達は与えられた人生を自分の力で生きる必要もありません。多くの人は人生途中で疲れ果てます。なぜならば、人生は難しいからです。嫌な事がたくさん起こります。
 しかし、聖書には、神の力によって人生の困難に全て勝つことができると書かれているのです。
 ローマ人への手紙8:37
37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
 私達の人生は神の支配下にあり、神の愛の計画が実現しているのです。神の計画は素晴らしい計画ですから、不安になったり、恐れたりすることがないのです。

次に、選ばれた人は自分の存在を肯定できるのです。
 多くの人は自分が価値のない存在と思っています。私達はいつも社会から「お前はだめだ。価値がない」という声を聞くのです。ですから、自然と自分は価値がないと思っています。しかし、選ばれるという事を通して、私達は自分の持つ本当の価値を再発見することができるのです。「お前は必要とされない存在」という声に、ただ一言こうこたえればいいのです。「神は私が必要だから、私を選んだのだ」と。

 神が私達を選んだのは、私達が必要だからです。私達は神に必要とされている存在なのです。神はあなたが存在していることが喜びなのです。社会はあなたは何ができるのか、と聞きます。「あなたは能力があるのか」、「社会に貢献できるのか」、と。
 しかし、あなたはこう答えることができるでしょう。神は私を通してご自身の計画を実現しようと私を選んでくださった。私は神の計画を実現するためにこの地上に生かされているのだ、と。
 私達の人生は神に用いられる人生です。用いるのは神ご自身なのです。

II. 謙遜の力
次に福音は謙遜の力を与えてくれます。謙遜な人は強い人です。しかし、人はなかなか謙遜になれません。それはプライドがあるからです。
 ヘンリナウエン:プライドとは、自分の本当の姿を見せたくないので、自分を高くカモフラージュすることである
 自分に恥ずかしい過去があったりすると、本当の姿を見たらきっと失望するだろうと思います。それで、一生懸命自分を高く見せるのです。
 福音の力は、その壁を破ることができるものです。福音とは、神がありのままの私を受け入れてくださるという事だからです。
 実は、プライドほど弱いものはありません。プライドはちょっと傷つくと、もう怒りに震えるからです。あの人からこんな事を言われた、と怒ります。プライドが傷ついたと言います。強く見えますが、本当の自分は内側で人の言葉や評価を恐れているのです。
 ですから、人からいつも隠れます。自分を良くみせようと頑張ります。時には、自分に対して良い評価をしてくれる人とだけ話します。自分のことを良く言ってくれない人を遠ざけます。
 これがプライドの姿です。プライドに満ちた人同士の集まりは、自分の虚像を言い合う集まりです。自慢に満ちています。自慢することによって自分の弱さを隠しているのです。本当の弱さを言えません。ですから、自慢します。
 もし、人の評価や悪口を恐れなくてもすむなら、また、自分の本当の弱さをさらけ出しても平気ならば、どれほど楽でしょうか。福音の力はそれをも可能にするのです。なぜならば、あなたはイエスの十字架によって全ての罪がすでに赦されているからです。
 ある牧師が日本人にとっても罪とは、人前で言えない恥ずかしい事だ、といいました。罪とは一人で隠れて犯します。共犯者がいるときもいますが、多くの場合は一人で隠れて犯すのです。罪は恥ずかしさを生みだし、恥ずかしさは恐れを生みだします。
 神様にどんなに愛されているといわれても、罪を犯すならば恥ずかくなります。そして、恐れます。
 アダムとエバは神から愛されていることを知っていました。しかし、罪を犯した後、神から逃げました。人は罪を犯したら、神から逃げます。そして、自分の罪を隠すためにプライドで身を固めます。本当の自分が見えないように城壁を作ります。そして、おびえながら、外の様子を伺っているのです。そして、少しでもその城壁を攻撃してくる人がいたら、容赦なく、やっつけるのです。ですから、プライドの高い人は他人を傷つけながら生きています。怖くて傷つけずにいられないのです。
 しかし福音は、あなたの罪はイエスの十字架によって赦されたと宣言するのです。
神が赦したので、誰も責めることはできないのです。

 裁判官が無罪の判決を出したら、検事がどんなに恐い顔であなたの罪を言い並べてももう無駄です。もう終わったのです。あなたは無罪で、赦されたのです。もちろん、私達が罪人でなかったのではありません。代わりにイエスキリストが私達の罪を全部負ってくださったのです。ですから、罪を犯さなかったのではなく、罪がなくなったのです。
 福音は悲しみを笑顔に変える力です。苦しみを喜びに変える力です。
 もしあなたが神の赦しを信じる決心をして、「神よ、聖書を信じます。私の罪が全部赦された事を信じます。」と祈るならば、その瞬間からすべてが変わるのです。
 聖書は約束の書物です。その約束をにぎりしめればそのようになります。ただ、眺めているだけでは、約束は自分のものとはなりません。信仰によって約束を自分のものとするのです。
 福音を信じたら、心が明るくなります。罪は私達の心を支配する暗闇の力です。しかし、光は暗闇を消します。 
 赦しはまた癒しの力です。過去の傷や痛みも神の光によって癒されます。嫌な思い出が、懐かしい思い出に変わります。これが癒しです。

 もし、あなたが今日、「あなたは価値がない」「あなたはだめだ」という声を聞くならば、それを福音の言葉で反撃するのです。神は私を選ばれた。私は神によって神の計画を行なう力が与えられている。
 そして、「お前は恥ずかしい存在だ」「お前の本当の姿を知ったら、人も神も大いに失望してお前から離れていくだろう」という声を聞くならば、「私のすべての罪はイエスキリストの十字架によって赦されている。それだけでなく、私がイエス様を信じているならば、必ず私は罪に打ち勝つようになるのだ。なによりも私を愛する神が私の味方なのだ」と。
 人はたくさんの声を聞きます。悪い声、だます声、裁きの声、冷たい声などです。多くの人はうるさい声だけを聞いてしまいます。しかし、待っているならば神の声が聞こえてきます。それは愛の声、優しい声、赦しの声、いたわりの声です。この声を聞けるようにチューニングを合わせるのです。聖書はいつも良い言葉を発します。たとえそれが今の自分には痛い言葉であっても、そこに深い愛があるのです。
 来年度は今年よりも多く神の言葉に励まされ、強められる一年であるように願い求めましょう。
 祈りましょう。