古い人を脱ぎ、新しい人を着ましょう
2025年8月17日
聖書箇所:コロサイ3章
8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、
10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられて、ますます新しくされ、真の知識に至るのです。
過去2週間において、脳内物質とドーパミンの過剰分泌による回路形成という話をしました。特に先週の不品行、情欲、貪欲に関しては、すぐに回路ができてしまいます。すると脳は、考え・決断するという前頭前野(Prefrontal Cortex)、つまり新しい脳を通さずに命令するようになります。これがドラッグ、ギャンブル、依存症の問題だと話しました。
神様は私たちの脳をそのように造られました。ですので、この問題に対する処方箋は、すぐにやめることです。断ち切ることです。聖書では厳しく「殺しなさい」と命じています。幸いなことに、この回路は使わなければ消えます。もっと良い方法は、別の回路を作り、それを習慣化すると、脳は新しい回路を使うように命じます。それが、1節の「上にあるものを求めなさい。天にあるものを思いなさい」ということです。これは、霊的な生活の習慣化です。いつも御言葉と聖霊の臨在を求める時に、良い回路ができるのです。たとえば、賛美、感謝などは習慣化すると良い回路になります。ですので、「いつも喜びなさい」という命令は、脳医学的にも正しいのです。
脳医学というと、「そんな世の中の人の考え方ではなく、霊的なことを話してください」と思うかもしれません。
「霊的」と言うと、「もっと祈れ」とか「賛美集会に行け」ということだけを指すように感じるかもしれません。それらは大事です。しかし、熱くなってもまた冷めます。方法を知らないと、同じことを繰り返すのです。ですから、聖霊の導きと励ましの中で良い方法論を用いることは、決して間違いではないでしょう。
さて今日は、聖化に関する新たな命令です。
8節をもう一度確認しましょう。
8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
先週の不品行、情欲、貪欲は、どちらかというと個人的な問題でした。もちろん、不品行は家庭を壊し、貪欲は家族の財産をなくします。しかし、家族は犠牲になりますが、一番の被害者は本人です。今週の被害者は周囲の人たちです。つまり、他人を傷つける罪です。「そしり」とは馴染みのない日本語ですが、英語では slander であり、他人を傷つける言葉のことです。
口が悪い人は、良い言葉を使う努力が必要です。しかしここで言われていることは、心に瞬間的に浮かぶ悪い思いと、その思いを持ち続け行動に移す「悪」のことです。
このことについても、脳の働きと脳内物質を考えてみることは大事です。現代科学は神様を否定しますが、問題点はよくわかっています。
先週は、ドーパミンの過剰分泌が問題でした。本来は「やる気を起こす」ドーパミンが、「もっと欲しい」「またやりたい」と強い欲求を起こさせるようになっているのが問題です。ですから、通常の幸福以上の幸福を求める時にこのドーパミンの問題が起こるのです。
先進国には、お金とヒマがあります。聖書は「6日間働いて7日目は休む」と教えています。しかし今は、働かないで休みます。すると、刺激的な喜びや性的な喜びに興味を持ち始めます。マスコミはそれを「より素晴らしい幸福」としてメッセージします。いったんその快楽を知ると、通常の幸福感を持つことができなくなります。
一方、貧しい国で昼間働き、夜疲れて帰ると、その日の寝るまでの時間がとても楽しみです。これはドーパミンの働きです。お腹を空かせて食べると、普通の料理でもおいしく感じます。「空腹は最高のソース」です。
また、お金持ちは苦しみや痛みを避けます。しかし神様は不思議な方で、痛みや苦しみに耐えるとドーパミンが出てくるのです。
ドーパミンとは「快感を与える物質」と思われがちですが、正確には「報酬予測」の物質です。「この苦難を乗り越えたら良いことがある」と予測した瞬間、ドーパミンが放出されるのです。
つまり、天国に行くことを思うこと、栄化されることを思うこと、神様が共におられてこの試練を乗り越えることができることを思うときに、ドーパミンが出てくるということなのです。
面白い話があります。私は飛行機に乗るときに、「お金持ちはビジネスクラスに、貧乏人というか一般人はエコノミークラスに乗る。これが幸福の違いだ」と思っていました。ある時、ユナイテッドのオーバーブッキングで、サンフランシスコから成田まで、なんと約12時間の飛行時間をビジネスクラスで帰りました。幸福感、満足感、お得感でいっぱいでした。しかしビジネスクラスでも、家のベッドより快適というわけではありません。エコノミーに比べると楽でしたが、窮屈な空間に12時間閉じ込められていることには変わりありません。
印象的だったのは、お金持ちの家族——子どもは小学生低学年だったと思います——も同様にビジネスクラスに乗っていたことです。おそらく裕福な家庭でしょう。その家族が飛行機を降りてから大げんかをしているのです。最初は「こんなに恵まれているのに、ぜいたくだなあ」と思いましたが、このドーパミンのことを知って理解しました。
普段、忍耐のエコノミー席で、空港に着いた瞬間の開放感と、「これから楽しいことをするぞ」という期待感で疲れが吹き飛びます。ドーパミンが出ているのです。つまり、「この苦難を乗り越えたら、良いことがある」と脳が認識しているのです。
私たちは「試練のない人生、痛みが全くない人生、忍耐も必要ない人生、何でも手に入る人生」が幸福だと錯覚します。そして、それらを与えてくださらない主に対して不満を持ちます。しかし、脳医学的に言えば、苦難や忍耐のない人生は達成感のない人生となります。すると、ドーパミンによる喜びや充実感は浅くなり、間違った快楽を求めてしまいます。ギャンブルやドラッグや不倫に走ると、不幸に転落していきます。必要に応じて苦難や試練が与えられるのは、むしろ感謝なことなのです。
さて、今週はアドレナリンという物質です。これは怒り、不安、驚きの時に出てくるものです。これは脳内物質ではなく、副腎髄質(腎臓の上にある副腎)という部分から出ます。これも古い脳がコントロールしています。
アドレナリンは、「非常事態にすぐ対応できるように体を戦闘モードに切り替える」物質です。
つまり、アドレナリンとは、危険な状況になった時に自分の中で攻撃に備えさせるものです。森でクマに遭遇したとします。多分、そのクマは自分を襲ってくるだろうと判断します。逃げるか戦うかしないと殺されます。そこで脳はアドレナリンを出して、すごい力を発揮させるのです。「火事場のばか力」もこのアドレナリンのおかげです。
しかし、現代人の問題は、本来危険な時だけに出るこのアドレナリンが、いつも出ていることです。
この怒りの問題に関して、実は私たちは間違った理解をしている場合が多いのです。まず、「怒ることは正しい反応である」ということです。私たちは「怒り自体が悪い」という文化の中に育っています。誰かが怒ると「あの人は問題だ」と、怒り自体を問題とします。また子どもが怒ると、親はただ「怒ってはだめ」と叱るだけで、まるで怒ること自体が悪いことで、怒らない人が良い人だと思っているのです。
何をされても、何がうまくいかなくても怒らない人——むしろ、その人の方が問題なのです。怒りを肯定してあげることが大事です。そして、怒りに対処する方法を教えてあげることが大事です。子どもが約束してもらったプレゼントをもらえなかったら、怒るのは当然です。それを「仕方ないでしょう。怒らないで」と諭すだけでは間違っています。「怒るのは当然だね」と認めてあげることが必要です。
聖書では、イエス様も不当・不義に対して怒っています。
また、こうも書かれています。
エペソ 4:26
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」
つまり、怒り自体が罪というよりも、「怒りを持ち続けること」が罪であると言っているのです。
科学的にいうと、アドレナリンが出るのは6秒間です。つまり、この臨戦体制は6秒で終わるのです。ですから、瞬間的に怒りが爆発する人は、「6秒間待つことができない人」です。そして、その後84秒間で消えていきます。つまり、怒りとは90秒。最初の6秒さえ耐えれば、あとは徐々に消えていくのです。
しかし、聖書が命じているのは「90秒我慢しなさい」ということではなく、これがずっと続く人の問題なのです。実は、怒り・憤り・そしりには、もっと大きな問題が背後にあります。聖書は「悪意」と言っています。これは英語では malice、ギリシア語では κακία(kakia)です。これは、「悪い思いを持ち続けること」です。
実は、怒り・憤り・そしりには「二次的な怒り」ということが関係しています。二次的な怒りとは、言い換えれば「自分で怒りの物語を作ること」です。90秒の間、怒りの原因を解釈しようとしてしまうことです。その時に、相手の意図を悪く解釈し続けるという物語を作ります。
ちょっとした失言に対して、「この人は悪い心を持って、自分を意図的に傷つけた」という物語を作るのです。すると、それが内側で悪意に変わっていきます。正義の怒りが復讐心に変わっていきます。すると脳は「敵がいる」と判断してアドレナリンを出し続けます。90秒が何回も繰り返されます。本来、瞬間的に力を発揮させるアドレナリンがいつも出ていると、この強い物質は自分の体を壊していくのです。ですから、聖書は「怒りを持ち続けてはいけない」と命じているのです。
ですから、怒りや憤りは「90秒我慢」です。そして、その間に悪い物語を作らないことで二次的怒りに発展しないようにすることです。
次に、嘘です。聖書がここで「偽り」としているのは、自分の利益のための嘘です。欲や自分を守るための偽りです。
たとえば、
・失敗や過ちを隠すため(叱られたくない、信用を失いたくない)
・利益追求:お金、地位、権力を得るため
・印象操作:自分を良く見せたい、評価されたい
・責任回避:罪や義務を免れるため
これらは、「罪の本質=自己中心」から出てくる嘘です。
嘘は、ばれた時に信頼を失います。また、いつも嘘をつく人は「二枚舌」と言われます。友人は遠ざかり、人間としての評価が落ちていきます。人間関係の土台は信頼です。それを裏切ることになるからです。悪い場合には、社会的な信用を失い、社会的死となります。
さて、今日の結論でありメインテーマは「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着ること」です。これを説明して終わります。
10節で「真の知識に至る」と教えています。これを原語で調べると、「新しい人」とは「新しく(renewed)された知識」を持っていて、神様の造ったイメージに向かっているということです。
つまり、「間違っている考え方という土台を変えることで、罪のない姿に近づいていく」ということです。
罪とは「的外れ」という意味です。新約聖書ではギリシア語の ἁμαρτία(ハマルティア)、旧約聖書ではヘブル語の חטא(ḥaṭṭā’āh)/חטא(ḥāṭā’)が使われています。両者とも「的を外す・外れる」という意味で、「神の道から外れている」ということを表します。
ですから、罪とは「神の道ではなく、間違った道を歩き続けていること」です。聖化とは、「間違った道ではなく、正しい道に方向を変えること」なのです。
「なぜ正しいことをしなきゃいけないの?」と、私たちは自分に問いかける必要があります。その理由は、「正しいことをすることが神さまの栄光を表し、そして私たち自身の本当の幸せにつながるから」です。
そのためには、人生で不必要なものは捨てることです。
怒り、憤り、悪意、そしり、そして嘘。これらを持っていても幸福にはなれません。捨てるべきものなのです。
ある人は新しい服を買っても、古い服をいつまでも持っています。そして、その古い服を着て出かけます。その人は言います。「いえ、新しい服は自分に合っていないし、慣れていないのです。古い服はずっと着てきたので快適なのです。」確かに、新しい服は慣れるまで時間がかかります。脳も同じです。新しい回路を作るのは大変です。新しい価値観や土台の上に生きるのは、慣れるまで時間がかかります。しかし、悪いものは捨てなければなりません。主イエスを信じるということは、「新しい人になる」ということなのです。
祈りましょう。
天の父なる神様、
今日、御言葉を通して「古い人を脱ぎ、新しい人を着る」ようにと教えられたことを感謝します。
私たちはしばしば、怒りや偽りの中に歩んでしまいます。しかし、あなたは私たちをキリストに似せて新しく造り変えてくださいます。
どうか、私たちが悪を脱ぎ捨て、主イエスを着る者として日々歩むことができますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげします。
アーメン。


