恐るな、心配するな



2025年7月27日 礼拝

聖書箇所:

イザヤ41:10

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

イザヤ41:13

あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。


人は誰でも、恐れと不安を持ちます。それは、私たちが弱い存在であるからです。たとえば、森に行きます。そこには、熊や狼がいるかもしれません。当然、武器もなく彼らに遭遇すれば、怪我するか、ひどい場合には殺されてしまいます。

また、私たちは将来がどうなるかわかりません。明日何が起こるかもわかりません。それで、不安になります。子どもの頃は自分でなんでもできると思います。しかし、年齢とともに、自分の力ではどうすることもできないことを体験します。そして、不安を持つようになるのです。

しかし、実は神様は、私たちが恐れや不安を持つことを知っています。というよりも、私たちをそのように創造したのです。それは、私たちが日常でいつも神様とともに生きるためです。

私たちは神から離れて、独立して一人で生きていくようには造られてはいないのです。

しかし、罪ゆえに私たちは神様から離れたところで力や安心を得ようとします。しかし、どんなにお金や地位を得ても、また能力がどんなにあっても、解決できない問題は起こります。

私が最近、自分の力では何もできないと感じたのは、ビザの問題です。今回もビザを5ヶ月近く前に申請しましたが、IRCCは私の期待をいつも裏切ってくれます。いまだにビザの更新の許可が来ません。このビザ問題も、最初は自分の力で頑張りましたが、今は神様の力と計画にお任せしています。

しかし、振り返ってみると、ほとんどのことが自分の力でできたわけではなかったのです。私がアメリカに留学したことも、結婚できたことも、そして牧師としてここまで頑張ってきたことも、みんな神様の助けがあったからです。神様は能力を与え、友人や助け人を与え、環境を変え、人の心を変え、私にやる気と力を与えてくださったからできたのです。

極端な話をすれば、私たちが生きているのは神様のおかげなのです。息をすることも、食物を食べて健康に生きていることも、また、病にかかっても主を賛美できるのは、すべて神様の恵みゆえなのです。神様が助けてくださらなければ、私たちはここに平然と存在していることさえできないのです。

もし、クリスチャンが神を深く理解し、それに信仰が加われば、基本的に何も恐れることなく、心配することなく楽しく生きていけるはずなのです。しかし、私たちはノンクリスチャンと同様に恐れ、心配してしまうのです。

今日の聖書箇所は、イザヤ書というところからです。イザヤ書がいつごろ書かれたか知っていますか。紀元前700年頃です。この書は二つに分かれていて、39章まではその時代への預言、40章からは後に起こるバビロン捕囚の民への慰めと回復の預言が書かれています。自由主義神学の人たちは、「イザヤが100年以上後に起こるバビロン捕囚がわかるわけないので、後半は別の人が書いた」と言っています。科学的根拠のない奇跡を信じない人たちだからです。

私たち福音派はイザヤ書全体がイザヤによって書かれたと信じています。なぜならば、預言者は神様から特別な啓示を受けた人だからです。神様は未来を全部知っています。ですから、この41章は後に捕囚の民が読むために書かれたものです。

イスラエルの南王国は紀元前586年に滅びました。エルサレムは焼かれてしまいました。そして、多くのユダヤ人たちはバビロンに奴隷として連れて行かれたのです。そこで彼らは希望を失ってしまったのです。その時のバビロンは強大な国で、彼らは帰る希望も、国を復興する希望も失っていました。しかし、それは彼らの神様像が間違っていたからです。

それから47年後の紀元前539年にペルシャがバビロンを滅ぼし、翌年にはクロスという王様が、ユダヤ人に対して「エルサレムに戻り、国を再建しなさい」と命令したのです。

時計を戻してみましょう。捕囚の民として連れてこられたユダヤ人たちは、どんな気持ちだったでしょうか。「もうだめだ。これで終わりだ。神様を信じていても、このことは無理だ。私たちの民族は終わった」と失望していたかもしれません。最初は希望を持っていた人たちも、47年間主を信じ続けて希望を持ち続けることは簡単ではなかったはずです。

私たちも同様です。先ほど、「クリスチャンが神をよく理解し、それに信仰が加えられれば、何も恐れることなく、心配することなく楽しく生きていけるはずなのです」と言いました。しかし、これは状況にもよります。大きな苦難や困難が続く時、私たちの多くは恐れ、不安と心配に支配されてしまうのではないでしょうか。これが人間であり、クリスチャンであっても人間です。しかし、神様は私たちと共にいてくださり、助けてくださるお方なのです。

今日の聖書箇所をもう一度見ましょう。

イザヤ41:10

10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

まず、こんな話を聞いたことがあるかもしれません。「聖書の中で一番多い命令は、『恐れるな』という命令です」と。これは正確ではありません。実際には、「恐れるな」「心配するな」という命令は、100回程度です。これでも多分一番多い命令とは思います。しかし、それに「私が共にいる」という言葉を加えると、実に300回以上となるのです。

つまり、聖書の「恐れるな」「心配するな」とは、「私が共にいる」という言葉とセットになっているということなのです。「私が共にいるから、恐れるな、心配するな」ということなのです。

聖書の「恐れる」という言葉は、旧約聖書ではヤーラー、新約聖書ではフォベオーです。

● 原語(旧約聖書ヘブル語)

ヤーラー(יָרֵא / yārēʼ)

意味:恐れる、畏れる(良い意味でも悪い意味でも使われる)

敵・困難・神の力に対して。これは、どちらかというと外からの脅威・危機に対する反応です。

● ギリシャ語

フォベオー(φοβέομαι / phobeomai)=私は恐れる

phobou(φοβοῦ)=「恐れるな(恐れよ)」という命令形

意味:恐れる、おののく

→ 「フォビア(phobia)」の語源です。

私たちはいろいろなことで恐れます。不安になります。外側からの敵、困難に対して、また将来のことについて、考えれば考えるほど不安になります。

面白い話ですが、ある人が「心配をやめるため」に、代わりに心配してくれる人を雇ったそうです。そして彼は、もう心配しなくて済むと思っていましたが、今度はその人に支払う賃金のことで心配するようになったそうです。つまり、心配とは、生きている限りなくなることはないのです。

さて、神様はそんな私たちの心配を三つの方法で解決してくださいます。

わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。


I. あなたを強め

これは、「強くする」「奮い立たせる」「心に力を与える」などの意味です。単に体力を与えるのではなく、内面的な勇気や信仰の力を与えることです。

問題が祈っても解決しない時、だいたい神様はそれに対処する力を与えようとしています。たとえば、人間関係であれば、内側に愛情が与えられて、その人と仲良くすることで解決したりします。また、自分ではできないような問題に直面した時に、不思議と知恵や方法が思い浮かんだりします。

これは、奇跡や問題が一瞬で解決することではありませんが、いつも祈りをもって取り組むならば、道が開け、解決していくのがわかります。


II. あなたを助け

次に、「助け」です。これは神が直接助けてくれると解釈することができます。人間の力では限界に達したときに、神が外から介入してくれるニュアンスです。つまり、奇跡的な助けを受けるのです。人が与えられたり、物やお金が与えられたりします。

今回のサニーサイドの講師は長澤先生でしたが、彼が明日の月曜日から仕事があるということで、急遽高い飛行機チケットを取らなければならなくなりました。その額が2,700ドルで、その予算はありませんでした。祈り、協力を呼びかけた時に、神様がいろいろな人に語りかけてくださり、結果として4,000ドルほどの献金が与えられました。そして、長澤先生はもちろん、英語部の講師の旅費まで出すことができるようになりました。神様が奇跡を起こしてくださったのです。

また、困っている時に「え、なんでこの人が」というような人を送ってくださったりします。


III. 主権によって守られている

そして三つ目は、「わたしの義の右の手で、あなたを守る(uphold)」です。この「義の右の手」とは独特の表現で、神様の主権を示しています。

ところで、神様の義とは人間の義とは少し違います。人間の義とは文化・教育に影響され、相対的で、時代や国によって変化します。また、完全に正しい判断はできません。一方、神の義は絶対的です。すべての時代・人・状況に対して正しいのです。そして、神の義には愛と真理が含まれています。

この完全な義は、神の主権につながります。神は義と力をもって全世界を支配しているのです。ですから、神の計画には間違いも訂正もありません。その神の絶対的な義と主権の中で、私たちは守られ、支えられているのです。

つまり、神は状況が良くならない時でも、主権によって支配しているのです。

わかりやすい例は、先ほどのイスラエルの捕囚です。47年の捕囚生活ですから、二世代にわたる計画です。捕囚当時40代を超えていた人たちは、バビロンの地で人生が終わったでしょう。一方で、バビロンで生まれ、バビロンしか知らない世代もいます。また、10代、20代の人たちはその後の47年間、苦しい生活をしなければなりませんでした。しかし、この47年間、神様はご自身の主権によって、その計画を実行し続けていたのです。神にとっては、すべてが予定通りなのです。

それは、私たち個人個人に対する計画も同様です。小さい頃に苦しかった人もいるでしょう。青年になってから苦しみが続いている人もいるでしょう。この世では病と痛みで人生を終える人もいるでしょう。しかし、私たち一人一人の人生には、神様がともにおられて、その良い計画を実践しているのです。

今回、サニーサイドキャンプで長沢崇史牧師と会うことができたことは、とても感謝でした。彼の賛美は、私が芦屋福音教会にいた頃、彼の賛美が大好きな賛美リーダーがいて、よく歌っていました。また、こちらに来てもロブ、ウィルやジャレットがよく歌っているので、今も私たちはよく歌っています。私が彼の賛美が好きな理由は、彼の賛美歌の歌詞が聖書の真理を教えているからです。

今日は「主は良いお方」という彼の賛美の歌詞を読みます。

わが魂(たましい) 主をたたえよ

聖なる御名を ほめたたえよ

主の良くしてくださったことを

何一つ忘れるな

主は良いお方 主は良いお方

恵みと憐れみの冠(かんむり)をもって

私の一生 良いもので満たす

主は良いお方 賛美をささげます

「主は良いお方」とあります。主は良いお方です。とは、誰にとって、どのように良いのでしょうか。

まず、「良い」とは、私がこの世で成功するとか、金銭的に豊かにしてくれるという意味ではありません。私たちにとって都合の良いお方という意味ではありません。主が私たちに持っている計画は、まず主にとって良いものであり、主にとって良いものなので、私たちにとっても良いものなのです。主が良いお方なので、すべてのものは良いものなのです。

苦しい時、つらい時があります。しかし、それらも含めて、すべてが良いものなのです。

長沢先生の十八番、得意なシリーズとして、詩篇23編を一節ずつ教えるというのがあるそうですが、ぜひ2年後にも先生をお呼びして、それを聞いてみたいと思います。さて、その詩篇23編にはこのような言葉が書かれています。

詩篇23:4

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。

あなたが私とともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

ここでダビデは、自分の人生を振り返っています。ヘブル語には時制がありませんから、彼は「恐ろしい死の陰の谷を歩いたような経験」から、私たちに語っていると言えるのです。

誰の人生にも、死を意識するような、死がすぐ近くにいるような暗闇の時がきます。そして「心の不安や恐怖」が原因で、不安障害になってしまうかもしれません。クリスチャンでも心の病にかかります。しかし、神は共にいてくださいます。そして、神は私たちを助けてくださるのです。

神は13節で、私たちがそれを信じるように迫っています。

イザヤ41:13

あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。

これを言い換えている新約聖書の箇所があります。

ローマ8:31

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

現代社会の特徴として、「何かを恐れる」「不安で眠れない」「心配と緊張で病になってしまう」、または現実逃避のために何かに依存してしまうケースもあります。私たちは、過去のトラウマ、過労、孤独、人間関係の圧力、家庭の問題、経済的な不安などから完全に解放されることはできないのでしょう。

しかし、主を信じる者には、時にかなった主の助けが与えられるのです。患難も、苦しみも、迫害も、飢えも、危険も、病も、私たちをキリストの愛から引き離すことはできないのです。


祈り

祈りましょう。

愛する天の父なる神様、

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」との、あなたの尊い約束をありがとうございます。

不安と不確実さと痛みに満ちたこの世にあって、私たちはしばしば恐れ、心配してしまいます。でも今日、あなたが私たちを強め、助け、あなたの義の右の手で支えてくださるお方であることを、確信させてください。

どんな時も、私たちを見捨てず、共にいてくださることを感謝します。

私たちが弱いときには力を与え、どうにもならないときには助けてくださり、すべてが揺れ動く中でも、変わらない土台となってくださることを感謝します。

自分の力に頼ってしまったことをどうかお赦しください。

もっとあなたを信頼できるように助けてください。

死の陰の谷を歩む時でさえ、あなたが共におられ、あなたのむちと杖が私たちを慰めてくださることを覚えさせてください。

あなたの御臨在のうちに憩い、あなたのご計画を喜び、恐れや心配なく生きることができるようにしてください。

なぜなら、私たちはあなたに属する者だからです。

私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。