復活から昇天
2025年6月1日
聖書箇所:使徒の働き 1:3–5
3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
イントロ:
イエスは復活して、40日間弟子たちに現れたとあります。
40日という期間はどうでしょうか。長いでしょうか。短いでしょうか。
何か大きな事を成し遂げるには短いでしょう。それで、イエスは3年半かけました。
しかし、何かの確認、指示を出すためには40日間は十分な時間といえます。
私は今回、日本に3週間滞在しました。21日間です。よく知っている人たちとだけ会いました。それで、二つの大きな問題がありました。それに対して、状況を理解し、自分の考えを言い、それを説明し、解決への道を示すことができました。
イエスが40日間、具体的に何をしたかを知ることはできませんが、イエスが何をしたかったのかを知ることはできます。
まず、イエスのビジョンは教会を作る事でした。教会とは、この世で唯一、聖書に絶対的な価値を置いて歩んでいく共同体です。教会は建物ではありません。宗教団体や慈善団体としての組織ではありますが、この世の組織とは全く違います。教会は聖書の土台の上に、信徒が一緒に信仰生活をしていくための団体であり、組織なのです。
その点、クリスチャン学校やキリスト教の会社や団体とは違います。まず、教会の構成員はすべてクリスチャンです。つまり、この世の価値観や聖書とは違う考えが教会の流れを作ることはありません。
たとえば、お金です。お金は大事ですが、お金に最も大事な価値を置いてはいません。企業はお金もうけのために存在しています。社員は生活の必要を、働くことによって得るのです。それ以外は重要ではありません。学校教育も同様です。学校は、この世の常識と知恵と能力を身につけるのが目的です。クリスチャン学校も同様です。数学、科学、歴史の教えは、聖書とは違います。しかし、学校で能力を身につけることで、社会で仕事をするスキルを身につけます。
つまり、教会以外のすべての団体や組織はノンクリスチャンも含みながら、この世の価値観を大切にしながら存在していくのです。
しかし、教会は地上で唯一、聖書が絶対の中で歩んでいるのです。それで、教会には牧師がいます。初代教会の時代は使徒でした。彼らはイエスと共に歩んでいたので、イエスの教えを間違いなく伝えることができたのです。
現代は牧師です。牧師は神学校で正しく聖書を学び、それをローカル教会で信徒に教え、信徒が残りの生涯をこの地上でどのように過ごすかを教えるのです。
エペソ4:11–12
11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
整えられるためには、いろいろな方法があります。主は今も私たちの環境を通して働いてくださっています。聖書を知っている人は自分に対する主の恵みを悟り、聖書を知らなければ神様のことを知らずに生きてしまうのです。
奉仕とは、教会の奉仕だけではありません。むしろ、クリスチャンとしてどのように世の中で仕えていくか、です。また、それはキリストのからだを建て上げることにもつながります。
しかし、大事なことはキリストに対する正しい知識を得ることです。この世は間違った教えや価値観で満ちています。
イスラエルはいつも周辺諸国の成功に誘惑されました。当時は軍事的な勝利の秘訣がいつも関心ごとでした。強い国を見ながら、彼らの偶像を取り入れてしまったのです。
今日、私たちも同じような誘惑に直面しています。成功している人々は、魅力的に思える人生観や幸福論を語ることがよくあります。しかし、この世は聖書に従おうとはしません。聖書を利用することはあっても、それにひれ伏すことはないのです。
13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
大事なことは、キリストの性質に似ていく事なのです。言い換えれば、罪の支配から神の支配に変わる事です。そのために、主は聖書と聖霊を与えてくださっているのです。
次のポイントは、3節後半です。(英語訳では前半です。)
「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」
キリストの復活は、おとぎ話や夢物語ではないのです。現実であり、事実なのです。イエスの復活した姿を見た人たちは、弟子たちにとどまらず、非常に多くの人たちでした。
1コリント15:6
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
「眠った」とは、死んだ人という意味です。この手紙が書かれた年代は紀元57年頃と言われていますが、キリストの復活から約27年後です。その時点でも、多くの復活したイエスを見た人たちは生きていたのです。
初代教会がどんな迫害にも屈せずに信者の数を増やしたのは、多くの人たちが復活したキリストに会ったからです。見た人は否定することができません。それゆえに、その信仰は迫害に負けません。
私のように、心に響く声を聞いただけで、人生を180度変えられたのですから、当時の弟子たちとイエスの復活を見た人の確信はどれほど強かったかと思います。その確信が教会の土台となっているのです。
エペソ2:20
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
ですから、教会は「主の復活に対する確信」と主の教えに満ちているのです。復活はまた、福音を伝える力でもあるのです。
教会はこの世の片隅で静かにしている共同体ではありません。教会は、この世に福音を宣言する声です。ちょうど、バプテスマのヨハネがイエスの訪れを告げたように、です。
マタイ3:3
この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。
荒野とは、まだ主を知らない人たちがいる場所です。そこで、叫ぶ人が必要なのです。主が来られたと宣言するのです。
教会は集団です。しかし、それは日曜日と集会の時です。普段は、クリスチャン一人一人が教会です。そして、一人一人が遣わされているのです。
ローマ10:15
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
良い知らせとは福音です。この世で一番素晴らしい知らせは福音です。この福音を伝えるのは、口だけではありません。足も必要です。自分の環境にだけ留まっていてはいけないのです。
あるクリスチャンは家族伝道しかしません。それも大事です。しかし、「足を使う」ことが大事です。一番のチャンスは、相手が関心をもって聞いてくることです。そのためには、「私はクリスチャンです」と、いつも言っていなければなりません。ほとんどの人は「ああ、そうですか。」で終わりです。
しかし、そこに主が働いている人たちがいます。その人たちは関心を持って、こちらに話しかけてきます。「どうしてクリスチャンになったのですか。」または、「教会ってクリスチャンでなくても行っても良いのですか」と。
聞きたくない人に無理やり聞かせるよりも、聞きたい人に伝えるのです。主が備えてくださる人がいます。
さて、今日のもう一つのポイントです。
4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
イエスが天に昇って10日後に聖霊が来ました。旧約時代にも聖霊の働きはありましたが、それは特別な使命を持っている人たちだけに限定されていました。しかし、教会時代には、イエスを信じるすべての人に与えられ、それも、内側に住んでくださるのです。
ここで、「待つこと」を考えてみましょう。
神様は「待つ」「待たせる」のがお好きな方です。それは聖書を読めばわかります。神の約束、神の計画はいつも「待つ人たち」によって実現するのです。
最初はアブラハムでしょう。彼は約束の子イサクを25年間待ちました。そして、ヨセフもそうです。彼も13年間の間待ちました。モーセは40年。ダビデも王となるために荒野で長い時間を過ごしました。救い主は、最後の旧約聖書預言者マラキから400年以上です。
なぜ、神様は待たせるのでしょうか。それは、待つ事によって信仰が強くなるからです。数日の試練と10年待つ事は、どちらが信仰を強くさせるでしょうか。試練はその時は苦しいですが、終わるともとに戻ります。しかし、「待つこと」は日々の戦いです。
神様は決して急ぐお方ではありません。じっくりと時間をかけて物事を実現するお方です。
さて、イエスの昇天後の10日間はどんな日々だったと思いますか。弟子たちにとって、イエスがいなくなった日は、死んで復活するまでの三日だけです。正確に言うと、イエスが死んだ金曜日、土曜日と日曜日の午前中です。日曜日の夕方にはイエスが彼らのところに来ました。
彼らは、とても不安だったでしょう。しかし、彼らは最も良い方法を選びました。
使徒1:14
この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。
つまり、祈りながら待っていたのです。これは、「待つ時」に最も良い方法であると思います。私たちの心は揺れ動きます。祈りは私たちの心を主に向けて、信仰が強められます。
弟子たちにとって不安な時、彼らは祈りながら待ちました。私たちの不安な時、神様が近くにおられないと感じる時、または、神様の計画が見えない時には、祈りながら待つことが大事なのです。
信仰とは「目に見えないことを確信する」ことです。目に見えないことを確信するためには、目に見えるもので判断してはだめです。霊的な目で判断するのです。霊的な目とは、聖書であり、聖霊の働きなのです。
来週はペンテコステです。イエスの昇天から10日後に聖霊が下りました。来週は聖霊についてお話しします。
祈りましょう。
父なる神様、主は復活して、昇天しました。弟子たちはそれを目の当たりにしました。彼らは10日待ちました。聖霊が降りました。この一連のできごとの中で、弟子たちの信仰は揺らいだことでしょう。
彼らはイエスがずっと一緒にいてくれると思っていましたが、教会を作る使命は聖霊によって行われるのが神様の計画でした。
私たちはそれから2000年経って、教会によって福音を聞き、教会によって聖書を教えられています。どうぞ、神様の良い計画が教会の上に、私たちの上に実現するように祝福してください。
聖書を通して、神様のことを知り、正しい信仰生活ができますように守ってください。また、主イエスの願いである福音のために生きることができるようにも用いてください。
主イエスの名前によって、祈ります。アーメン。


