復活がもたらすもの


2025年4月20日イースター礼拝
聖書箇所:1コリント15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
 まず、パウロは頭脳明晰なパリサイ人でした。パリサイ人とは当時、自己保身のために良く考えないでキリストを抹殺しようとしたグループで、彼らの計画はユダを通して成功しました。
 問題は、彼らが「キリストが本当のメシアだったら、自分たちはどうなってしまうのか」ということを考えなかったことです。自分の立場や権力を維持することが大事で、真実を見抜くことができなかったのです。パウロはその点で少し違いました。彼は自己保身や立場よりは、何が正しいのかということを考える人でした。
 それで、彼はキリスト教を迫害しても、その後で客観的にキリストの言葉が神の言葉かどうかを調べたのです。
ガラテヤ1:17 先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。18 それから三年後に、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。
 彼は三年祈り、学び、神と向き合い、キリストがメシアであることを聖書から理解したのです。それが、彼の熱心な宣教活動の土台となりました。
 パウロは、キリストがメシアである証拠はキリストの復活であると言っています。
1コリント15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
 イエスの言葉の知恵深さ、神しかできない奇跡、そして、弟子たちの十字架後の変化などはイエスがメシアである間接的な証拠です。しかし、直接的で絶対的な証拠は復活なのです。
 言い換えれば、イエスの教えがどんなに素晴らしくても、また、イエスの奇跡がどれほど凄かったにしても、イエスが復活していなければ、イエスはメシアではないということになり、キリストの教えに従う人たちは間違った教えを信じている哀れな人たちということになるのです。それほど復活は大事なのです。

今日は、まずそれを考えてみましょう。
 まず、キリストは犯罪人として処刑されました。昔の預言者たちもそうでした。しかし、殺され方が違います。イエスは十字架にかけられて死んだのです。
 ガラテヤ書でパウロが教えているように、木にかけられて死ぬ人は神に呪われた人なのです。
ガラテヤ人への手紙 3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。
 さらに、イエスが十字架上でこのように叫びました。
マタイの福音書 27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 イエス自身が、自分が神に神の怒りを受けていると言っているのです。
つまり、ユダヤ人から見れば、神に見捨てられ、神の怒りを買った人が自分たちのメシアであるとは受け入れられないのです。
 しかし、キリストが復活したということは、今度は神に祝福されていなければ有り得ないことなのです。
 ペテロは、イエスが神がイエスを復活させたと言っています。
使徒の働き 2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
 つまり、キリストは神の呪いを受けたけれども、死後には神の祝福を受けて復活したということです。これが、聖書が語る贖いの十字架なのです。キリストの死は、罪人が受ける神様からの怒りでありました。しかし、死によって罪の清算が終わりました。キリストは罪がありませんから、神の力によって復活したのです。
 実は、旧約聖書にメシアは苦しみと死を背負い、人々を救い出すことが預言されているのです。
イザヤ53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

今日の後半は、キリストの復活が私たちに与える恵みを三つお話しします。 
I.キリストの復活は罪の清算が終わったことの証拠
 つまり、キリストの復活はキリストの十字架の死によって私たちの罪の清算が完全に終わったということです。
 それは、キリストの最期の言葉にも表れています。
 ヨハネ 19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
 この完了したという言葉は、テテレスタイというギリシヤ語が当てられています。この意味は終わったという完了形なのです。また、この言葉は商業用語で、負債が全部支払われたという意味でもあるのです。
 イエスはアラム語で語ったはずですが、ヨハネは聖書を書く時にその言葉の意味をはっきりとわかるようにギリシヤ語自制を使って表現したのです。
 私たちの救いは、100%キリストのおかげであるということが福音です。キリストが99%してくださって、私たちの努力が1%などということはありません。私たちの努力、や貢献は救いには必要ないのです。

II.キリストの復活は死への勝利の証拠
 次に、キリストの復活は、死に対する勝利です。もともと死は神様への反抗の結果として与えられている裁きです。これは、クリスチャンでも逃れることはできません。しかし、これは肉体の死です。肉体は罪によって不完全となりました。ですから、この体では生き続けることはできません。この体はどこかを怪我したり、臓器を失うと再生されることはありません。また、病気に弱くがんになれば命を失うこともあります。また、痛みがあり、怪我や病気や死ぬ前にはとても痛いのです。神は罪の代償として肉体の死を全員に与えましたが、クリスチャンには霊的な命を与えて永遠に生きる肉体を与えてくださることを約束してくださっています。

1コリント15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。

 キリストを信じる者にとって肉体の死はそれほど大きな意味を持ちません。痛みや愛する人たちとの一時的なお別れではありますが、その時が来たら新しい肉体が与えられるからです。
 
 イエスはラザロが死んでしまって悲しんでいる人たちを見て、イエス自身も涙を流されました。それほど、死とは私たちの人生に君臨している恐怖であり、悲しみなのです。しかし、イエスはラザロを復活させることで、キリストを信じるならば必ず復活できることを見せてくださったのです。
 
 ヘブル2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

III.キリストの復活は天国の恵みの証拠
 
 神は愛であると同時に、神は正義のお方です。正義とは悪者を裁くということです。私たちの社会でも警察と裁判所がしっかりと機能しているので、悪い人たちは裁いてもらえます。しかし、それでも頭の良い犯罪者は裁きを狡賢く逃げたり、刑務所からすぐ出てきます。では、全知全能の神様はどうでしょうか?
 
 まず、神様は上手に弁明すれば罪を見逃してくれるということはありません。または、悪人を捕まえることができなくて逃がしてしまうこともありません。神はその人が生まれてから死ぬまで何を考え、何を言い、どんなことをしたかを全部知っています。その上で、完全な正義を行います。

 ところで、私たちは凶悪犯罪には非常に厳しい目を向けますが、軽い犯罪は問題にしません。それは、自分もしていることなので、他人にだけ厳しくできないのです。しかし、神様は一切罪がないお方です。ですから、神様から見たら、ちょっとした悪い事でも、罪を見逃すことはできないのです。多くの人は犯罪だけが罪と思いますが、人は神に創造されたので、神様が命令した事の一つでも従わなければ、それも罪に加算されます。

 すると、礼拝、神様の命令の一つができなかったから1点マイナスとします。すると、毎日10点くらいはマイナスです。すると、一年で3650点、10年で36500マイナス点、80年生きると29200マイナス点。つまり、人生で29200以上の罪を犯している計算となります。このような人はこの世ではどちらかというと良い人の分類に入ります。その人でも、神様の前に出る時、30万回も罪を犯している極悪人になってしまうのです。

 天国に行ける人とは、神の一方的な赦しを受けている人だけです。神の一方的な赦しを受けている人とは、キリストがその人のすべての罪を背負って、代わりに神の裁きを受けてくれた人だけなのです。

黙示録20章には、最後の審判の場面が描かれています。その最後の部分にこう描かれています。
黙示録20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 このいのちの書とは、聖書にいろいろな形で出てきますが、直接書かれている箇所もあります。
ピリピ4:3 ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。

 パウロの他の箇所から、このいのちの書に書かれている人とは、パウロと一緒に福音のために最期まで忠実に生きた人のことであることがわかります。

 イエス自身もこう言っています。
黙示録2:10死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

 つまり、このいのちの書に名前があるかどうかが最も大事なことであり、私たちがしっかりと神様を礼拝していることは、このいのちの書に書かれているからなのです。

 今日は最後に、天国の恵みを少し見てみたいと思います。

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

天国は、この地球に生き残るということでも、この地球のどこかに住みやすい所があるということではなく、全く新しい神様の創造です。この地球を造った神様が、その子どもたちのために用意してくださる場所です。天国に蚊やごきぶり、害虫はいません。また、毒キノコもないでしょう。
 
3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 

 今もイエス様が一緒にいます。しかし、それは霊的な臨在であって、弟子たちのように肉体のイエスと一緒にいるわけではありません。祈っても実感がない時もあります。しかし、天国ではいつもイエスに会うことができます。天国にはたくさんの人がいるから、自分など神様に会うことはできないだろうと思う必要はありません。
 新しい身体には、物理的な障害はありません。つまり、天使のように瞬間移動ができます。また、神様は二ヶ所以上に同時に存在できるお方です。ですから、天国ではいつでも父なる神様、イエス様、聖霊様と会えて、話ができるのです。

4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 天国には罪がなく、悲しみも痛みもないところです。まず、罪がなければ人を傷つけることも人から傷つけられることはありません。心に浮かぶことは良いことだけなのです。結婚はありません。子どもは生まれません。ただ、結婚以上の親しい関係を兄弟姉妹と持つことができるようになるでしょう。本当の意味での良い人たちと永遠の過ごすようになるのです。

 これが、神様の計画です。この計画が本当であることの証拠がキリストの復活なのです。イースターは、復活の希望と確信をお祝いする時です。一年一回、この地上での人生がどんなに楽しくても、それは一時的であって、はるかに素晴らしい人生が待っていることを確認する時なのです。そして、それを成し遂げてくださった主イエスに心から賛美と感謝を捧げる時なのです。

祈りましょう。