愛し、仕える教会
2024年10月27日
聖書箇所:ピリピ2:19-22
しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。
20 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。
21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。
22 しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。
イントロ:
ある人の会社が行き詰まり、そして、とうとう倒産しました。彼は人生で最大の危機の中で自殺しようとしました。しかし彼は、その前に教会で暖かい交わりがあったことを思い出して、その事を交わりの中で打ち明けたのです。
その言葉を聞いた、兄弟たちはそこで彼を心から慰め、そして、一緒にこの危機の中でも負けずにがんばると誓ってくれました。そして、一週間に一回彼と聖書研究をしながら、一緒に神の力と恵みを求めました。彼のうちひしがれた魂はじょじょに回復し、そして、その励ましのおかげで、少しずつ仕事ができるようになりました。
そして、彼は何とか立ち直り、前と同じくらいの会社を経営することができるようになったのです。その時を振り返り、あのとき「自分を責めず、辱めず、共に涙して、励まし、祈ってくれた教会の兄弟がいなかったら、自分は自殺していただろう」と語ります。
もう一つの話があります。これはある婦人です。彼女は過去に恥ずかしい失敗をした経験がありました。彼女も教会の交わりの中に加わりました。そこでは、「私たちはキリストにある兄弟姉妹だから、何でも話して共に祈りましょう。」と言われました。彼女はキリストの愛と教会の暖かさを信じて、自分の恥ずかしい過去を話しました。すると、その話の後に、ある姉妹が「私も同じような事があったけれども、祈りと信仰によって勝利しました。」続いて、他の姉妹も「そのような問題は忍耐と祈りで克服していかなければならないと思います。」と言いました。彼女はそれらの言葉を聞きながら「自分がステージに乗せられて、みんなが自分を見ながら笑っている」ような気持ちになりました。そして、その時こう誓ったのです。「私は決して自分の弱さを語ることはやめよう。特にこの集まりの中では表面的なことだけを言おう」彼女はとても心がさびしくなりました。
I. 愛の人たち
今日の箇所を読みましょう。パウロはピリピ教会の問題をエパフロデトから聞いて、この手紙を書きました。それだけではなく、彼はテモテを送るとも書いています。
19 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。
今日の箇所を読むと、パウロは愛の人だとわかります。愛の人は、その人に問題があることを聞いたら放っておけません。何かの行動するのが愛の人です。しかし、パウロは牢獄にいるので自分では行けません。そこで、パウロはテモテを送ろうとしているのです。
テモテはパウロの弟子ですが、彼もまた愛の人です。テモテはパウロと共にピリピ教会の開拓に関わった人です。彼はそれまでも数回ピリピ教会を訪問しています。テモテもエパフロデトから報告を受けた時にパウロと同じ気持ちになったのです。彼もまた愛の人であったことがわかります。
20、21節を読みましょう。
20 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。
21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。
二者が登場します。両者ともクリスチャンです。最初の人たちは、自分のことだけを求める人たち、次に、他人のことを心から心配する人たちです。
多分、パウロが言う「自分自身のことを求める人たち」は、当時ローマに居たクリスチャンたちでしょう。彼らはパウロを受け入れることなく協力もしませんでした。自分たちの立場や名声が大事で、パウロに対して競争心を持っていました。クリスチャンと言ってもまだまだ自分のために生きていた人たちでした。神のみ心とは関係なく、自分の望むままに生きていました。
一方、パウロのグループは違いました。彼らは自分よりもキリストを優先する人たちでした。自分を犠牲にしても神のために生きる人たちでした。また、愛の人たちでした。その愛は、自分中心のヒューマニズム的な愛ではなく、自分を犠牲にしても、他者を助けるキリストの愛でした。日々キリストを求め、キリストの人格が内側に造られつつある人たちでした。また、日々聖霊の働きを受けていた人たちでもありました。神の力が働いていた人たちです。そのような人たちは、愛の人であり、また、仕える人たちでもあります。
II. 仕える人たち
22 しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。
「奉仕」という言葉は、仕えるという動詞で、原語ではデュレイオーです。この言葉は、奴隷のデュロスの動詞形です。聖書が奴隷という時に、搾取や虐待の意味はありません。ただ、自分のためではなく、主人のため働くという意味です。聖書の主人は、神である主イエスです。
さて、テモテはパウロに出会った時はまだ二十代だったと思われます。彼はガラテヤ地方出身で、父はギリシヤ人、母はユダヤ人でした。祖母が熱心に神を礼拝する人でした。おばあちゃんとお母さんによって神を礼拝する人と育てられたクリスチャン3世です。パウロは第一次宣教旅行でテモテと出会い、彼の将来性を見つけました。パウロはテモテを第二次宣教に誘い、それから一緒に働きました。パウロはテモテを次世代リーダーとして育てました。パウロはテモテと一緒に福音を語り、一緒に教会のミニストリーをし、一緒に書簡を書き、時にテモテを自分の代理人として教会に派遣しました。
しかし、パウロはテモテを自分の弟子にはしませんでした。彼はいつもテモテを同労者と呼びました。それは、クリスチャンは特定の人物にではなく、キリストの仕える者たちだからです。クリスチャンはみなキリストの弟子であり、みなが同労者なのです。賜物の違いで、違う形で主に仕えているだけの違いです。
ところで、仕える(serve)とは、世の中的には良い言葉ではありません。仕えるとは、低い人が高い人にする行為だからです。サービス業をしている人は、お客さんに仕えることで収入を得ます。日本では、「お客さんは神様です」などという事を信じている人たちもいます。いずれにしても、多くの人たちは、仕える人は仕えられる人よりも劣っているという考え方を持っています。しかし、聖書ではそれが逆転します。上の人が下の人に仕えるのです。神が人に仕える見本を見せてくださった通りです。
マタイ 23:11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
キリスト教会では、仕える人が霊的に高い水準にいる人です。しかし、仕えるという事は一般社会からではなく、キリストから学ばなければなりません。人にぺこぺこしたり、自分を卑下することが仕える事ではありません。2週前にキリストの見本を学びました。仕えることは、偉そうにふるまわないこと、従順であること、謙遜であること、そして、愛の人であることです。
多くの人は人生が長くなるにつれて人を見下すようになります。それは、能力や経験で他人よりも自分が優れているからです。そして、それにふさわしい生活を求めます。しかし、キリストは違いました。キリストは王宮ではなく、貧しい家に生まれました。ラクダではなく自分の足で歩きました。家来ではなく、ものわかりの悪い弟子たちと一緒に過ごしました。自分のためには神の力を使わず、他人のためにだけ使いました。キリストは謙遜で、愛の人でした。罪を自覚している人には優しく、高慢な人には真っ向から立ち向かいました。自分の欲のために生きず、父なる神のみ心をいつも求めて、それに従いました。苦難に耐え、痛みに耐え、敵の攻撃に耐え、味方の裏切りにも耐えました。自分が神であるにも関わらず、自分を認めない人たち、無視する人たち、バカにする人たちに怒ることなく、ひたすら福音を伝えました。十字架の痛みに耐え、悪魔の誘惑に負けることなく、最後まで父なる神のみ心を行いました。これが聖書の仕えるという意味です。キリストがその見本であり、使徒たちはそれを直接見て、キリストに近づこうと生きたのです。それが、今パウロからテモテにも伝わっているのです。
聖霊は、私たちがキリストを知り、キリストのようになりたいと願うように導き、それを実現させるお方です。仕える人を言い換えれば、こういう人格のことです。
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。
一緒にヨハネ13章1節を読みましょう。
1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
日本語ではその愛を残るところなく示された、英語では、showed them the full extent of his love. とあります。どれほどの愛を見せてくださったのかなあ、と思います。私たちの一番残念なことは、キリストが居た時代と場所に生まれていない事です。当時、イスラエルとその周辺に居た数千人の人たちしかキリストに会うことはできませんでした。しかし、幸いなことは、聖書を通してキリストを知る事ができることです。また、キリストに会った人たちの変化を見て、神が何を望んでいるかを知れることです。この福音書を書いたヨハネは、もともとは雷の子とよばれるような荒々しい気質でした。彼がキリストを知る事によって愛の人と変えられていったのです。
教会が愛の人たち、仕える人たちであふれていたら、どれほどのインパクトを与えることができるでしょうか。しかし、多くの教会には律法的な冷たい風が吹いています。人間関係の難しさは、世の中の組織と変わりません。むしろ、誰かが罪を犯すと、その人を責める方向で一致します。一方で、たくさん献金したり、教会に貢献した人たちの罪は暗黙の了解で許されます。キリストよりは人の栄光が讃えられます。聖書を自分勝手に解釈する牧師たち、語られても実践しない信徒たちが少なくありません。教会の外の人たちを神を信じていないと批判しますが、自分たちも大差ないことに気づいていない教会。世の人がそこに属する人たちの人格や愛を基準にして所属する団体を選ぶならば、多くのキリスト教会は選ばれないでしょう。問題は、教会がキリストと違うからです。「クリスチャン(Christian)」という言葉の意味は、「キリストに従う者」または「キリストの弟子」という意味です。この言葉は、ギリシャ語の「Χριστιανός(Christianos)」から来ているのです。しかし、キリストが見本ではなく、キリストが教会の飾りにしかなっていないのです。
愛がある教会、仕える人が多くいる教会はキリストを地上に示します。愛のない教会、高慢な人が集まる教会は、キリストではなく別の神を伝えています。
パウロはピリピ教会を愛しました。ピリピ教会のことが本当に気がかりでした。ですから、心配し、祈り、そして、できることをしようとしました。テモテもまたパウロと同じ気持ちでした。テモテは自ら進んでピリピ教会に行きました。しかし、問題は解決しなかったのでしょう。結局は、パウロも行くことになりました。
愛があるから、また仕える人が多いからといっても、問題が起こらない、問題はすぐに解決できるわけではありません。しかし、全能の神を信じるならば、自分が何ができるかは大事ではありません。むしろ、主のみ心を求めて、それを行うかどうかが大事です。結果や達成よりも、信仰と従順が大切なのです。そして、いつも祈ることです。祈りを通して神のみ心を知り、神の力を受けるからです。次回はエパフロデトについて学びましょう。
祈りましょう。
A Church that loves and Serves
October 27, 2024
Scripture: Philippians 2:19-22
A certain person’s company ran into trouble and finally went bankrupt. In the midst of the greatest crisis of his life, he thought of taking his own life. However, he remembered a warm fellowship he once experienced at a church, so he opened up about his struggles in that fellowship. Hearing his words, the brothers comforted him from the bottom of their hearts and pledged to stand by him and not give up, even in the face of this crisis. They started meeting once a week to study the Bible together, seeking God’s strength and grace. Gradually, his broken spirit began to heal, and with the encouragement he received, he was able to start working bit by bit again.Eventually, he managed to recover and went on to run a company comparable to his previous one. Looking back on that time, he says, “If it hadn’t been for the brothers at church who didn’t judge or shame me but cried with me, encouraged me, and prayed for me, I would have ended my life.”
There’s another story about a woman. She had an embarrassing failure in her past. She also joined the fellowship at church, where she was told, “We are brothers and sisters in Christ, so let’s share anything and pray together.” Trusting in Christ’s love and the warmth of the church, she shared her shameful past. After she shared, one sister said, “I also went through something similar but overcame it through prayer and faith.” Another sister added, “I think challenges like that should be overcome with patience and prayer.”
Listening to these words, she felt as if she were on stage, with everyone watching and laughing at her. At that moment, she made a vow: “I will never speak of my weaknesses again. Especially in this group, I’ll only share surface-level things.” She felt a deep loneliness in her heart.
I. People of Love
Let's read today’s passage. Paul wrote this letter after hearing from Epaphroditus about the issues in the church at Philippi. Not only that, but he also writes that he plans to send Timothy.
19 I hope in the Lord Jesus to send Timothy to you soon, that I also may be cheered when I receive news about you. (Philippians 2:19)
When we read today’s passage, we see that Paul is a person of love. A person of love cannot ignore others’ problems when they hear of them. Love moves a person to act. However, since Paul was in prison, he could not go himself, so he decided to send Timothy.
Timothy was Paul’s disciple, and he, too, was a person of love. Timothy had been involved with Paul in planting the Philippian church and had visited the church several times before. When he received the report from Epaphroditus, he shared Paul’s concern. We can see that Timothy was also a person of love.
Let’s read verses 20 and 21.
20 I have no one else like him, who takes a genuine interest in your welfare. (Philippians 2:20) 21 For everyone looks out for his own interests, not those of Jesus Christ. (Philippians 2:21)
Here we see two types of people, both Christians. The first group is those who seek only their own interests, and the second is those who genuinely care about others.
Paul was likely referring to the Christians in Rome when he spoke of “those who look out for themselves.” They didn’t support or cooperate with Paul. They prioritized their own positions and reputation and even harbored competition against Paul. Although they were Christians, they were still living for themselves, not in alignment with God’s will but according to their own desires.
On the other hand, Paul’s group was different. They prioritized Christ above themselves and lived for God, even at personal cost. They were people of love, but not a self-centered, humanistic love. It was the love of Christ, a love that sacrifices itself to help others. They sought Christ daily and allowed His character to be formed within them. They also received the work of the Holy Spirit daily. These were people empowered by God, who lived in love and served others.
II. People who serve
22 But you know that Timothy has proved himself, because as a son with his father he has served with me in the work of the gospel. (Philippians 2:22)
The word "serve" here is derived from the Greek verb douleuo, which means “to serve.” This word comes from the noun doulos, meaning “slave.” In the Bible, when the word "slave" is used, it doesn’t imply exploitation or abuse; it simply means working not for oneself, but for one’s master. In the Bible, the Master is the Lord Jesus, who is God.
When Timothy met Paul, he was probably in his twenties. He was from the region of Galatia, with a Greek father and a Jewish mother. His grandmother was a devout worshiper of God. Timothy was a third-generation Christian raised in faith by his grandmother and mother. Paul met him on his first missionary journey and saw his potential. Paul invited Timothy on his second journey, and they worked together from then on. Paul trained Timothy as a next-generation leader, preaching the gospel, ministering to churches, writing letters together, and sometimes sending Timothy as his representative to different churches.
However, Paul didn’t consider Timothy merely his disciple; he always called him a coworker. Christians are not servants of a particular person but servants of Christ. All Christians are disciples of Christ, and all are coworkers. We serve in different ways according to our gifts, but all serve the Lord.
The term "serve" is not a favored word in the secular world, as serving implies an act of a lower person toward a higher one. People in service industries earn income by serving their customers, and in Japan, there’s even a saying, “The customer is God.” In any case, many people think that those who serve are inferior to those being served.
But the Bible reverses this idea: the one in authority serves those below them. God has given us this example by serving us.
The greatest among you will be your servant. (Matthew 23:11)
In the Christian church, those who serve are considered to be on a high spiritual level. However, the act of serving is something that must be learned from Christ, not from general society. Serving is not about self-deprecation or lowering oneself for approval. Two weeks ago, we looked at Christ’s example: serving means refraining from pride, being obedient, showing humility, and being a person of love.
As people grow older, they often begin to look down on others, thinking themselves superior due to their skills or experience, and expecting a life befitting this status. But Christ was different. He was born not in a palace but into a poor family, walked on foot rather than riding camels, and spent time not with servants but with his often hard-to-understand disciples. He used God’s power only for others, not for himself. Christ was humble and full of love; he was gentle with those aware of their sin and firm with the proud. He didn’t live for his own desires but always sought and obeyed the will of God the Father. He endured suffering, pain, attacks from enemies, and even betrayal from his followers. Though he was God, he didn’t get angry with those who didn’t recognize or ignored him; instead, he persistently shared the gospel. He endured the pain of the cross, resisted temptation from the devil, and carried out the will of God the Father to the end. This is what “serving” means in the Bible. Christ is the example, and the apostles, having seen this, sought to live in closer likeness to him. This legacy was passed from Paul to Timothy as well.
The Holy Spirit guides us to know Christ and desires for us to become like him. In other words, to be a servant means to have this character:
But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, patience, kindness, goodness, faithfulness, gentleness and self-control. (Galatians 5:22-23)
Let’s also read John 13:1 together:
1 It was just before the Passover Feast. Jesus knew that the time had come for him to leave this world and go to the Father. Having loved his own who were in the world, he now showed them the full extent of his love. (John 13:1)
I wonder just how much love he showed them. Perhaps our greatest regret is not having been born in the time and place when Christ was present. Only a few thousand people in Israel and the surrounding areas were able to meet Christ. But thankfully, we can know Christ through the Bible and understand God’s desires by seeing the changes in those who met him. The gospel writer John, originally known for his fiery temperament as a “Son of Thunder,” was transformed into a person of love by knowing Christ.
How impactful would it be if churches were filled with people of love, people who serve? However, many churches today are filled with a cold, legalistic spirit, with relationships that are just as challenging as those in secular organizations. Often, if someone sins, they are collectively condemned. On the other hand, the sins of those who donate generously or contribute significantly are implicitly tolerated. Glory is given to people instead of Christ. Some pastors interpret the Bible for personal convenience, and some believers fail to practice what they preach. They criticize those outside the church for not believing in God but fail to see how similar they themselves are. If people chose groups to belong to based on members’ character and love, many Christian churches might not be chosen because they fail to reflect Christ. The word “Christian” means “follower of Christ” or “disciple of Christ,” coming from the Greek Christianos, yet Christ has become more of an adornment than a model for the church.
A church filled with love and people who serve reflects Christ on earth. A church without love, filled with prideful people, communicates a different god, not Christ. Paul loved the church at Philippi and was deeply concerned for them. Thus, he worried, prayed, and did what he could. Timothy shared Paul’s concern and willingly went to Philippi. However, it seems the problem was not easily resolved, as Paul himself eventually decided to go as well.
Love and service do not prevent problems from arising, nor do they guarantee swift solutions. But if we trust in Almighty God, it’s not about what we can accomplish. Rather, it’s about seeking and doing the Lord’s will. Faith and obedience are more important than results and accomplishments. And we must always pray, for it is through prayer that we understand God’s will and receive his strength. Next time, we will learn about Epaphroditus.
Let us pray.