祈りシリーズ1 間違った祈り


2024年4月14日
聖書箇所:マタイの福音書6:5−8
イントロ:
 人は困難や苦難に陥るとどんな宗教でも、無宗教の人も祈ります。相手は、神様であったり、自然界や運命を支配している何かであったりとさまざまです。唯物論を信じている人は、祈りたくても祈れません。最期まで祈らないと思います。しかし、この祈らないと決めていること自体が、人は弱い存在で、何かに頼らなければ生きていけないことを示しているのです。
 日本には「困った時の神頼み」という言葉があります。また、映画やテレビなどでお母さんが子どものために「御百度を踏む」場面が出てきます。お百度とは、お寺の境内を100回往復しながら、願いごとを繰り返す祈りです。切羽詰まった祈りです。
 聖書によれば、アダムとエバからセツという人が生まれました。セツに子どもが生まれた頃から、主に祈ることを始めたと書かれています。人は罪によって神から離れていますが、心の深いところで神を求めているのです。
 さて、祈りとはとても難しいのです。その最大の理由は神様が見えないからです。見えない相手にコミュニケーションすることは不安だからです。昔は手紙でやりとりしました。届かないこともあったでしょう。不安が募ります。現代は、テキストメールがあります。まず、相手に届いたどうかは一瞬でわかります。不安が消えます。そして、待っていればやがて返事がきます。このようなコミュニケーションに慣れているので、神様に祈るのは難しいのです。
 聖書によれば、神様は遍在です。つまり、同時に二箇所以上に存在できます。ですから、私たちが口にする言葉は全部耳に入っています。当然、祈りも聞いています。その意味では、神様はいつでも「既読」なのです。しかし、問題は返信が遅いことです。ある人は、返事がすぐに来ないと不安になります。この人はわたしを大切に思っていないから、すぐに返事をしないのだ、と勝手に考えて怒り出す人もいます。大事なことは、神様は販売機ではありません。お金を入れてボタンを押したら、欲しいものが手に入ることではないのです。神様は神であるので、私たちはお願いすることはできますが、それをいつ、どのように答えるかは、神の判断によるのです。
 さて、本日から3回シリーズで祈りについて考えます。
最初に、間違った祈りということを共に見ていきましょう。
 このマタイ6章は、山上の垂訓です。5章では有名な八つの幸福がありました。その後、イエスは当時のユダヤ教が偽善の宗教であることを指摘します。そして、この6章でパリサイ人、律法学者たちの間違った祈りについて指摘しています。
 彼らは宗教的に熱心でした。旧約聖書の教えである施しについても表面的には行っていました。しかし、それは神の栄光のためではなく、自分の栄光のためでした。自分が称賛を受けて、自分が少しでも目立つようにしていたのです。
 主イエスは、彼らを偽善者と呼びました。偽善者とは、演技者です。舞台で仮面をかぶって演技する人というのが、この言葉のもともとの意味です。演技ですから、心が伴う必要もなく、パフォーマンスが素晴らしければ、観衆の称賛を受ける事ができます。しかし、それは全て自分のためであって、神の素晴らしさや栄光のためではありません。
 
まず、6章1節で、主は原則を言われました。
1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

 つまり、自分を高めるために生きてはいけないという原則です。全ての被造物は神の栄光を表すために創造されたので、常に神の栄光を表すために生きるのです。主イエスは、祈り、行動する時に、常に神の栄光を求めました。ただ、神にのみ栄光を!Soli Deo Gloria が、偽善のない生き方なのです。
 
 この事を頭に入れて、5節から見ていきましょう。ここで、主イエスは祈りにおける二つの注意点を教えているのです。

I. 自分を高める祈り
5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

 人に見られる場所で祈ってはならないという意味ではありません。また、会堂、つまり、教会堂で祈ってはいけませんという意味でもありません。自分が祈っている姿をわざと見せたり、聞かせたりして、自分が称賛を受けるようにしてはいけないという意味です。
  
 ユダヤ人は良く祈る民でした。彼らは、小さい頃から旧約聖書を守るようにしつけられているので、祈る習慣がついているのです。イスラム教の人たちは一日に5回も地面に頭をつけて祈ります。当時のユダヤ人も一日に何度も祈りました。しかし、それらが人に見せるためであれば、本当の祈りではないのです。

 カトリック教会には祈祷文があります。それを音読するのです。ある時、友人の神父が言いました。プロテスタントの人は自分の言葉で祈れるのですね、と。わたしの大学時代に、校長先生が代表して祈りました。とても立派な祈りでした。学生たちの成功、経済の問題、国の発展と数分間祈りました。しかし、それは原稿を読んでいるだけでした。宗教的な文化の中にいると、いつのまにか心が失われます。そして、人が聞く時に耳障りの良い祈りを自然に作ってしまうようになるのです。しかし、真実な祈りはそのような習慣的な祈りではありません。

 次に、主は「会堂や通りの四角に立って祈るのが好き」と言いました。立って祈ることが悪いことではありません。聖書には祈りの姿勢が三つ書かれています。ひざまづいて祈る、立って祈る、座って祈るです。立って祈ることに問題はありません。しかし、その動機が「目立つため」であれば問題です。会堂とは今の教会堂です。教会堂は、賛美し、祈るためにあるわけですから、会堂で祈る事に何の問題もありません。問題は、人に見られたい、人に評価してもらいたいという動機です。
 
 もし、私たちの祈りが人の評価を意識したものであれば、その祈りは神に対してではなく、神に祈るふりをして人に見せているのです。
 逆に、人が居ても、人が聞いていても、祈るの人の心が神にだけに向かっていればその祈りは神に対しての祈りなのです。ですから、私たちが人前で祈る時に注意しなければなりません。祈りは神にだけ向いているべきなのです。もし、私たちが格好良く祈りたいと思うならば、それは人を意識しているのです。

 私はクリスチャンになったばかりの時に、長く祈れずに恥ずかしい思いをした事があります。祈りの言葉が出てこないので、すぐに終わってしまいました。「え、もう終わり」と言われて、恥ずかしい思いをしました。それ以来、人前では長く祈るようになりました。しかし、後で説明しますが、主なる神を知っている人の祈りは短く、シンプルです。

 教職にはいつもこの誘惑がきます。「もっと洗練された言葉、もっと長い祈り、人がほめてくれる祈り、人を感動させる祈り」つまり、祈りながら、それを聞く人たちの反応がとても気になるのです。

 祈りは誰に対してですか?神様に対して、です。その場にいる人のためではありません。もし、人に称賛されたいという思いで祈るならば、神ではなく、自分の栄光のために祈っているのです。

 自分の栄光を求めることはプライドです。プライドは神に敵対する罪です。人は神になれないし、動物は人間にはなれないのです。

 次の6節は多く誤解されている箇所です。
6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 「自分の奥まった部屋」とは「タメイオン」という言葉で、これは倉庫、小部屋、寝室などとして使われています。つまり、自分しか居ない場所という事です。
 
 祈りは人前で祈る時と、一人で祈る時があります。どちらが良い、悪いの問題ではなく、一人の祈りの方が神様にいろいろな事を話せるという事です。グループで会う時と個人的に会う時の、どちらが自分の事を深く、長く話せますか?

 祈りは神様に自分の内面を話すことです。人に話すことですっきりした経験があるでしょう。しかし、秘密として話したら次の週には他の人が知っていたとか、ただ聞いて欲しいだけなのに、余計なアドバイスや自分の行動を責められたりする事があります。しかし、神様にはそれがありません。聖霊の助けによって、心に平安が与えられ、言葉にできない痛みや苦しさから解放してくださります。そして、何よりも人には私の問題を解決する力がありませんが、主にはあります。

 祈りとは神との会話です。ですから、みなで一緒に祈ることは良いですが、それが全てでは祈っていない事と同じです。出来る限り、自分だけになれる時間と場所を見つけて、祈りを通して神に話しましょう。

 さて、主は「報い」について語っています。この山上の垂訓の報いとは、天にある報いです。祈りは最も必要で大事な奉仕です。この奉仕に励む人が報われないはずがないのです。
 
 さて、偽善の祈りの二番目は、7節です。
7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

II. 同じ言葉を繰り返す祈り
 この箇所も良く誤解される箇所です。同じ事を二回以上祈ってはいけない、という意味ではありません。主イエスもパウロも同じ祈りを主に捧げています。
 
 ここで、主イエスは異邦人の祈りを取り上げています。異邦人の祈りの特徴は二つです。たくさん祈れば聞かれるという事。そして、そのために同じ祈りの言葉を繰り返すという事です。

 ここでは、βατταλογέω(バタロゲオー)という珍しい単語が使われています。これは、アラム語のバタルという言葉から来ていると言われていますが、擬音語とも、擬声語とも言われています。つまり、バタバタ、ゲラゲラ、バラバラなどの音をそのまま文字にしたものです。実は、これは当時の擬音語だったのではないかという事です。英語では、bubble(バブル)と言って、意味のない音を発する事です。つまり、雑音です。
 異教徒の祈りは、同じ単語、文章を数時間も繰り返すのです。その理由は、神は簡単には祈りを聞いてくれない。だから、熱心に祈って神を叩き起こし、自分の願いをきかせなければならないという事です。

1列王記18章19節から読みましょう。

 長い箇所なので説明すると、当時イスラエルは偶像に満ちていました。エリヤはイスラエルの民、本物の神様を知らせようとします。そこで、イスラエル中から、バアルとアシェラの預言者たち、合計で850名が集められました。

I列王記18:19 さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」
20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。

 そこでエリヤは、本物の神様ならば天から火を起こすことができるはずだと言います。そこで、二頭の雄牛を用意します。その雄牛をさいて、それぞれのたきぎの上に載せます。そして、お互いに神の名を呼びます。エリヤは主の名を呼びます。つまり、主に祈ります。彼らはアシェラとバアルの神の名を呼びます。

26節です。彼らは朝から昼までバアルの神の名前を呼び続けます。つまり、祈り続けます。そして、踊りまわります。しかし、何の応答もありません。

26 そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。

 エリヤが彼らをあざけります。
27 真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」

 彼らは必死になります。そして、自分のからだを傷つけます。これも異教徒が良くしています。つまり、自分を苦しめる事によって神の関心を得ようとする行為です。
 
28 彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。
29 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。

さて、エリヤが祈る時となりました。エリヤは非常にシンプルです。
36、37節です。彼は言います。

36 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、
37 私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」

 主はエリヤのこの短い祈りにすぐに答えてくださいます。

38 すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。

 つまり、本物の神への祈りは明確な短い祈りです。 
この祈りには3つのポイントがあります。まず、神が誰であるのか、そして、その神と自分の関係は何なのか。そして、それが主の栄光の現れる願いなのか、です。

 祈りにおいて一番大事なのは、祈る相手が誰なのか、そして、その対象と自分の関係は何なのか、です。

8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

 まず、私たちに祈る対象は、天地を創造された聖書の神です。
 次に私たちはその神の子どもです。神がお父さんですから、子どもの願いに応じるのは当然です。なおかつ、このお父さんは、お願いする前から、必要なものを知っているお方です。

 知っているという事で、「じゃあ、祈らなくても良い」と思う人がいます。祈りは「情報を知らせる」事ではありません。祈りは会話です。祈りは心の深いところを打ち明け、主の知恵と慰めと力を受ける事です。麗しい親子関係は、どちらでしょうか。お父さんは子どものことを良く知っているので、「子どもはお父さんに一切何も話さない。」次は、お父さんは子どものことを良く知っているから、「子どもは安心してお父さんに何でも話す。そして、お父さんに任せる。」
 
 異邦人の祈りは、自分の願いが叶うまで求め続けるものです。しかし、神の子の祈りは父なる神への信頼の上に、自分の願いを知っていただくのです。そして、父は子どもの必要を満たし、子どもの願うことに対しては、ご自身の良い計画の中で答えてくださるのです。

 宗教的な祈りをやめましょう。祈りは形ではなく、心です。祈りは求めよりは、交わりです。そして、祈るならば聖霊の働きを受けます。そして、人生が良い方向に向かいます。
 

 父なる神様、私たちが祈る事ができる特権を感謝します。私たちの祈りは、生きていない偶像の神に対してではなく、生きておられる神様に捧げることを感謝します。同じ言葉を繰り返し、祈り続けなければ聞かれないという宗教的な考えを取り除いてください。父なる神は必要をご存知で、いつも最善を与えようとしておられる事を感謝します。どうぞ、いつも主と会話する事によって、主の思い、願い、主の計画が私たちの思い、願い、計画となるように助けてください。 
 また、祈る時に人を喜ばせる事で自分に報いが返ってくるような、人に見せる祈りではなく、主だけを思って祈る事ができるように助けてください。私たちが主が与えてくださる報いをしっかりと受け取ることができるように祝福してください。

Prayer Series 1: Wrong Prayers
April 14, 2024
Scripture: Matthew 6:5-8

Intro:
 People of all religions and even non-religious people pray when they are in difficulty or hardship. The recipient may be God or something else that controls the natural world and our destiny. People who believe in materialism cannot pray even if they wanted to. I don't think they will pray until the end of their lives. However, this decision not to pray itself shows that people are weak and must rely on something to survive.

 In Japan, there is a saying, "When in trouble, ask God for help.” In movies and TV programs, there are scenes in which mothers "step on the hundredth step" for their children. This is ‘Ohyakudo’ prayer in which the mother repeats her wish while walking back and forth 100 times around the temple grounds. It is an impassioned prayer.

 According to the Bible, a man named Seth was born of Adam and Eve. It says that when Seth had a child, they began to pray to the Lord. People are separated from God by sin, but deep down in their hearts, they are seeking God.

 Now, prayer is very difficult. The main reason for this is that God is invisible. It is because we are anxious to communicate with someone we cannot see. In the past, we communicated by letter. There must have been times when they did not reach. It would be very anxious. Today, we have text messaging. First of all, you know in an instant whether or not the other person received your message. The anxiety disappears. And if you wait, you will eventually receive a response. We are so used to this kind of communication that it is difficult to pray to God.

 According to the Bible, God is omnipresent. That is, He can be in two or more places at the same time. Therefore, every word we utter is heard by God. He also hears our prayers. In that sense, God is always “read.” The problem, however, is that replies are slow. Some people get anxious when they don't get a response right away; they think, "This person doesn't care about me. Some people get angry because they think that God doesn't care about them and therefore doesn't reply immediately. The important thing to remember is that God is not a vending machine. It is not a matter of putting money in and pushing a button to get what you want. Since God is God, we can ask, but it is up to God to decide when and how to respond.
 Now, starting today, we will consider prayer in a three-part series.

First, let us look together at what we mean by wrong prayers.

 This is Matthew 6, the Sermon on the Mount. In chapter 5, we had the famous eight blessings. Then Jesus points out that Judaism at that time was a religion of hypocrisy. In chapter 6, he points out the false prayers of the Pharisees. They were religiously zealous and superficially committed to the Old Testament teaching of almsgiving. But they did it not for God's glory but for their own. They were trying to make themselves as prominent as possible by receiving praise for themselves.

The Lord Jesus called them hypocrites. A hypocrite is an actor. The original meaning of the word is someone who puts on a mask and acts on stage. Because it is an act, it does not have to be accompanied by the heart, and if the performance is great, it will receive the admiration of the audience. But it is all for oneself, not for the splendor or glory of God.
 
First, in chapter 6, verse 1, the Lord said the principle.
1 Be careful not to do your 'acts of righteousness' before men, to be seen by them. If you do, you will have no reward from your Father in heaven.

 In other words, the principle is not to live for the sake of self-enhancement. All creation was created to express the glory of God, so always live to express the glory of God. The Lord Jesus always sought God's glory when he prayed and acted. Soli Deo Gloria is a way of life without hypocrisy.
 
 With this in mind, let us look at verse 5. Here, the Lord Jesus teaches two cautions in prayer.

I. Prayer for self-glorification
5 “And when you pray, do not be like the hypocrites, for they love to pray standing in the synagogues and on the street corners to be seen by men. I tell you the I tell you the truth, they have received their reward in full.”

 This does not mean that people should not pray in places where people can see them, such as the synagogue or church. It means that you should not intentionally show or let people hear you praying so that you will receive praise.
  
 The Jews prayed a lot. They were trained to observe the Old Testament from a young age, so they were in the habit of praying. Muslims pray five times a day with their heads on the ground. The Jews of that time also prayed many times a day. But if they are for show, they are not real prayers.

 The Catholic Church has a prayer book. They read it aloud. One day, a priest friend of mine said to me, "Protestants pray in their own words.” When I was in college, the principal of the school prayed in front of students. It was a very fine prayer. He prayed for a few minutes about the success of the students, the problems of the economy, and the development of the country and world peace. But that was just reading from a manuscript. Whenever you are in a religious culture, you lose your heart. And we naturally begin to create prayers that are grating when people listen. But true prayer is not such habitual prayer.

 Next, the Lord said, "You like to pray standing in the synagogue or on the street square.” There is nothing wrong with standing and praying. The Bible describes three postures of prayer: kneeling, standing, and sitting. There is nothing wrong with praying standing up. However, it is a problem if the motive is to "stand out.” The synagogue is the church building of today. There is nothing wrong with praying in a church because a church is for praising and praying. The problem is the motive of wanting to be seen and appreciated by others. If our prayer is conscious of people's evaluation, our prayer is not to God, but we are pretending to pray to God and showing it to people.

 On the other hand, if the heart of the person praying is directed only to God, even if people are present and listening, the prayer is a prayer to God. Therefore, we must be careful when we pray in public. Prayer should be directed only to God. If we want to pray in a fashionable way, it is with people in mind.

 When I first became a Christian, I was once embarrassed because I could not pray for a long. I couldn't find the words to pray and it was over too soon. I was embarrassed to be told, "Eh, You have already done it." Since then, I have prayed longer in public. But as I will explain later, the prayers of those who know the Lord God are short and simple.

 The leaders of the church always come with this temptation. They pray for more refined words, longer prayers, prayers that people will praise, prayers that will move people…in other words, they pray, but they are very concerned about the reaction of those who hear their praying.

 To whom do you pray? To God. It is not for the people present. If you pray with the desire to be praised by others, you are praying for your own glory, not God's.

 Seeking one's own glory is pride. Pride is a sin that opposes God. Man cannot be God, and animals cannot be man.

 The following verse 6 is a much-misunderstood passage.
6 But when you pray, go into your room, close the door and pray to your Father, who is unseen. Then your Father, who sees what is done in secret, will reward you.

 The Greek word for "go into your room" is ‘tameion,’ which means storage, a small room, a bedroom, etc. In other words, it is a place where only you are.
 
 There are times to pray in public and times to pray alone. It is not a question of which is better or worse, but rather that you can talk to God more about various things when you pray alone. Which can you talk about more deeply and at greater length, when meeting in a group or when meeting individually?

 Prayer is talking to God about your inner self. You have probably had the experience of feeling refreshed by talking to others. But if you tell it as a secret, the next week other people know about it. Or you just want to be heard, but they give you unnecessary advice or blame you for your behavior. But God doesn't do that. With the help of the Holy Spirit, He gives you peace in your heart and frees you from unspeakable pain and suffering. And above all, man does not have the power to solve your problems, but the Lord does.

 Prayer is a conversation with God. Therefore, As much as possible, find a time and place where you can be alone and talk to God through prayer.

 Now, the Lord speaks of “rewards." The reward of this sermon on the mount is a reward in heaven. Prayer is the most necessary and important service. It is impossible for a person who works hard at this service not to be rewarded.
 
 Now, the second part of hypocritical prayer is verse 7.
7 And when you pray, do not keep on babbling like pagans, for they think they will be heard because of their many words.

II. Prayer that repeats the same words
 This is another often misunderstood passage. It does not mean that we should pray the same thing more than once. Both Jesus and Paul offer the same prayer to God.
 
 Here, the Lord Jesus addresses the prayers of the Gentiles. Gentile prayer is characterized by two things. That if you pray a lot, you will be heard. And that they repeat the same words of prayer, they will receive answers.

 The unusual word used here is βατταλογέω (batarogeō). It is said to come from the Aramaic word batar, which is an onomatopoeic word. In other words, it is a written form of the sounds of flapping, gibbering, dismemberment, etc. In English, a bubble is a sound that has no meaning. In other words, noise. Pagan prayers repeat the same words and sentences for hours. The reason for this is that God does not hear prayers easily. That is why you have to pray fervently to wake God up and make him hear your request.

Let's read from 1 Kings 18:19.

 This is a long passage, so let me explain. At that time, Israel was filled with idols. Elijah wants to let the people of Israel know the real God. So, a total of 850 prophets from Baal and Asherah were gathered from all over Israel.

I Kings 18:19 Now summon the people from all over Israel to meet me on Mount Carmel. And bring the four hundred and fifty prophets of Baal and the four hundred prophets of Asherah, who eat at Jezebel's table."
20 So Ahab sent word throughout all Israel and assembled the prophets on Mount Carmel.

 So Elijah says that a real God should be able to make fire from heaven. So he prepares two bulls. The bulls are cut up and placed on their respective fire pits. Elijah calls on the name of the Lord. They call on the name of the God of Asherah and Baal.

Verse 26. So they took the bull given them and prepared it. Then they called on the name of Baal from morning till noon. "O Baal, answer us!" they shouted. And they danced around the altar they had made.

 Elijah mocks them.
27 At noon Elijah began to taunt them. "Shout louder!" he said. "Surely he is a god! Perhaps he is deep in thought, or busy, or traveling. And must be awakened."

The prophets of Asherah and Baal become desperate. And they hurt their own bodies. This is another thing pagans do well. That is, they try to gain God's attention by tormenting themselves.
 
28 So they shouted louder and slashed themselves with swords and spears, as was their custom, until their blood flowed.
29 But there was no response, no one answered, no one paid attention. But there was no response, no one answered, no one paid attention.

Now it was time for Elijah to pray. Elijah is very simple.
Verses 36 and 37. He says

36 At the time of sacrifice, the prophet Elijah stepped forward and prayed: "O LORD, God of Abraham, Isaac and Israel, let it be known today that you are God in Israel and that I am your servant and have done all these things at your command.
37 Answer me, O LORD, answer me, so these people will know that you, O LORD, are God, and that you are turning their hearts back again."

 The Lord immediately answers this brief prayer of Elijah.

38 Then the fire of the LORD fell and burned up the sacrifice, the wood, the stones and the soil, and also licked up the water in the trench.

 In short, a genuine prayer to God is a clear, short prayer. 
The right prayer has three points: knowing who God is, having good relationship with God, and requesting the manifestation of His glory.

 The most important thing in prayer is to know who you are praying to, and what your relationship is.

8 Do not be like them, for your Father knows what you need before you ask Him.

 First, the object of our prayer is the God of the Bible, who created heaven and earth.
 Second, we are children of that God. Since God is our Father, it is only natural that He responds to the wishes of His children. Furthermore, this Father is the one who knows what we need even before we ask Him.

 Some people think, "Well, then, I don't have to pray" because of the fact that He knows. Prayer is not "informing". Prayer is a conversation. Prayer is about confiding the deepest parts of our hearts and receiving the Lord's comfort and strength. Which is the most beautiful parent-child relationship? The father knows the child so well; therefore, does the child not talk to the father at all? Does the child not interested in the father's opinions or thoughts? Rather, the father knows the child so well that the child feels comfortable telling the father anything. Then, he leaves it to the father.

 The prayer of the Gentiles is to keep asking until their petitions are granted. But the prayer of the child of God is based on trust in God the Father to make his or her requests known. The Father then meets the child's needs and answers the child's petitions in His own good plan.

 Stop praying religiously. Prayer is not a form, but a heart. Prayer is not a request, but a communication. And if you pray, you will receive the work of the Holy Spirit. And your life will be turned around for the better.
 

Father, we thank you for the privilege of being able to pray. We thank you that our prayers are not to an unliving idol god, but to the living God. We ask you to remove the religious idea that we must repeat the same words and pray continually to be heard. Thank God the Father that He knows our needs and always tries to give us the best. Please help us to always be in conversation with Him so that His thoughts, desires, and plans become our thoughts, desires, and plans. 
 Also, please help us to pray with the Lord alone in mind, not with prayers that we show to others, Bless us so that we may firmly receive the rewards that the Lord gives us.