救われるべき名
2026年5月31日 主日礼拝
聖書箇所:使徒の働き4:12
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。
イントロ
皆さんは、「人は本当に変われると思いますか。」
そう聞かれたら何と答えるでしょうか。
若い頃は、「努力すれば変われる」と思っていました。
もっと勉強しよう。もっと優しい人になろう。
もっと忍耐深くなろう。もっと良い夫になろう。もっと良い妻になろう。もっと良い親になろう。そう思うのです。
しかし、年齢を重ねると気づきます。人はそう簡単には変わらないのです。
私は何十年もクリスチャンをしていますが、
今でも「ああ、また同じ失敗をした」と思うことがあります。
怒らなくて良いことで怒る。
心配しなくて良いことで心配する。
神様を信頼していると言いながら、自分の力に頼ろうとする。人はなかなか変われません。だからこそ、聖書の言葉は驚くべきものです。
I.新しく創造された人
Ⅱコリント5:17
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
聖書は、「努力して良い人になりなさい」とは言いません。
「神様があなたを新しくする」と言います。
改善ではありません。修理でもありません。教育でもありません。新しく創造される。これが聖書の語る救いです。
その証拠がペテロです。
今日の聖書の言葉を語ったペテロは、もともと勇敢な人ではありませんでした。
イエス様が捕らえられた夜、
一人の女中に
「あなたもイエスの仲間でしょう」
と言われただけで、「私はあの人を知らない」
と答えました。しかも三回です。
彼は逃げました。恐れました。失敗しました。
ところが数週間後、
同じペテロが、エルサレムの指導者たちの前で、何千人もの人々の前で、「イエスだけが救い主です」と宣言しているのです。何が起こったのでしょうか。
教育でしょうか。訓練でしょうか。
違います。
神様が彼を変えたのです。聖霊が彼を変えたのです。
私は牧師として長く奉仕していますが、今でも時々思います。
人間の力では説明できない変化があるのです。昔は自分のことしか考えなかった人が、
他人のために祈るようになります。怒りっぽかった人が、少しずつ優しくなります。
死ぬのが怖かった人が、平安を持つようになります。
これは性格改善ではありません。
神様の働きなのです。
多くの人は神様を便利屋さんだと思っています。
病気になったら祈る。お金が必要になったら祈る。問題が起こったら祈る。
もちろんそれは悪いことではありません。
私も祈ります。
しかし、もし問題が全部解決したら、
皆さんは本当に幸せになれるでしょうか。
お金があれば幸せでしょうか。
健康なら幸せでしょうか。
実際は違います。お金持ちでも自殺します。健康な人でも絶望します。
なぜでしょう。人間の問題はもっと深いからです。
Salvation、Deliverance
ここでペテロが語っているのは deliverance ではなく salvation です。
salvation とは一時的な助けではありません。永遠の救いです。私たちの罪が完全に赦されることです。罪を犯した私たちを神様が赦し、受け入れてくださることです。
ユダヤ人が「メシア」と言う時、それは salvation を意味していませんでした。メシアとは「油注がれた者」という意味であり、イスラエルを解放してくださる王に与えられる称号として理解されていました。
ですから、ユダヤ人たちはイエスがエルサレムに入城された時、「ホサナ」(主よ、お救いください)と叫びました。しかし、それは「イスラエルをローマの支配から解放してください」「革命の指導者となってください」という願いだったのです。
ところが、数日経ってもイエスは革命を起こそうとはせず、神の国について教え続けました。そのため群衆はがっかりしてしまいました。そして指導者たちに惑わされて、「イエスを十字架につけろ」と叫んでしまったのです。
弟子たちも、基本的には同じ考えでした。彼らは、自分たちがユダヤ解放の新しい王国の幹部になると思っていたのです。しかし、そのリーダーであるイエスは簡単に捕らえられ、処刑されてしまいました。
しかし、聖書の著者である神様の目的とメッセージは全く違いました。
神様はイスラエルを武力によって解放したり、強い国家にしたりすることを目的としておられませんでした。神様の計画は、全人類の罪を赦すためにイエスを十字架につけ、その死が自分の罪のためであったと信じる者たちを神の子どもとして受け入れることだったのです。
そして、神の国は武力によって広がるものではなく、信仰と祈りによって福音が伝えられていくものなのです。
弟子たちは、聖霊が下った時に聖書の本当のメッセージを悟りました。そして、それ以来、魂の救い、すなわち salvation を受けるようにと福音を語り始めたのです。
そして、このメッセージは二千年以上経った今でも、教会によって語り続けられているのです。
今日は、弟子たちの変化をもう一つ見ていきたいと思います。
II.神に従う
使徒4:18「そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。」
19「ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。『神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。』」
文脈を説明すると、3章でペテロとヨハネが宮で足の不自由な人を癒しました。そのことで群衆が集まったので、ペテロが説教しました。多くのユダヤ人が信じたため、祭司たちやサドカイ人たちは二人を捕らえて牢に入れました。そして翌日、彼らを議会の前に呼び出したのです。
「そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと命じた。」
以前のペテロとヨハネであれば、当局から禁じられれば、「はい、わかりました」と従ったはずです。
皆さんは国家権力に逆らったことがあるでしょうか。警察官個人に大きな権力があるわけではありません。しかし、警察に逆らうということは国家権力に逆らうことになります。国家に逆らうということは大きな力を敵に回すことですから、その恐怖は計り知れません。
例えば共産主義国家では、小さな違反でも何十年も刑務所に入れられることがあります。
ペテロとヨハネは、もともと普通の漁師でした。家族と共に平凡な幸せを送ることもできたはずです。もしイエスと出会っていなければ、国家に逆らうような大それたことをするはずもなかったのです。
しかし、イエスの十字架の意味を知り、国家が信じているユダヤ教の理解が間違っていると悟り、さらに聖霊がその真理を彼らの心にはっきり示した時、彼らは国家の命令に逆らうことになっても真理を語らなければならないと変えられたのです。
III.苦難の中でも喜ぶ
次の場面では、使徒たち全体の姿が描かれています。彼らも大胆に語るようになりました。すると当局は彼らを捕らえ、牢に入れました。しかし神は奇跡によって彼らを救い出されました。そして彼らは再び人々に福音を語り始めたのです。
彼らは苦難の中でも喜んだのです。
使徒5:40「使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。」
使徒5:41「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」
彼らは命を懸けて福音を語りました。
しかし、そのようなことは初代教会だけの話ではありません。
日本にも同じような人々がいました。
キリシタンたちです。
彼らは聖書を十分に持っていたわけではありません。
教理的にも不十分な部分があったでしょう。
しかし彼らは、「イエスを捨てるなら生きてよい」と言われても、
信仰を捨てませんでした。
拷問されても、
家族を失っても、
信仰を守りました。
なぜでしょうか。
私はそこに聖霊の働きがあったと思います。
人間の力だけで、
何十年も迫害に耐えることはできません。
ペテロを変えた同じ神が、
日本のキリシタンたちをも支えていたのです。
IV.語り続けた
42節「そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」
驚くべきことに、むち打たれた後に、また同じことをしたのです。彼らは愚かだったのでしょうか。いいえ、そうではありません。それ以上続ければ命の危険さえある状態でした。しかし彼らは真理のために語り続けたのです。
もし私が「この先の橋は落ちています」と知っていたら、皆さんに言います。
嫌われても言います。
なぜですか。
命がかかっているからです。弟子たちも同じでした。彼らにとって福音は
宗教ではありませんでした。命だったのです。
V.生きる意味は
私は最近、世の中のテーマが変わっていると感じます。
昔は「何のために生きるのか」でした。
今は「誰のために生きるのか」です。
しかし、どちらも最後には同じ壁にぶつかります。死です。
愛する人を失う時、何が残るのでしょうか。
人は人によって支えられます。しかし人もいつかなくなるのです、だからこそ永遠に変わらない愛が必要なのです。
使徒4:12この方以外には、だれによっても救いはありません。
これは排他的だから語られた言葉ではありません。
希望だから語られた言葉です。
ペテロは救いの道を見つけたので、
命を懸けて伝えたのです。
福音は神様が人類に与えてくださった最も偉大なプレゼントであり、人類にとって最も大切な希望だからです。

