キリストの愛にとどまりましょう


2025年3月2日
ブライアン ラベンダー牧師
聖書箇所:John15:9-17

今日のテーマは「愛」… もっと具体的には、「キリストの愛にとどまること」です。
このことをよく考えることはとても大切です。なぜなら、私たちは「愛」を理解しているつもりでも、実際には私たちが考えている愛と、神が語る愛が異なることが多いからです。
「愛」という言葉は、私たちが思う意味とは異なることがよくあります。
私たちの本文はヨハネの福音書15:9-17です。
9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

本文の最初の節、9節を見てみましょう。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)
つまり、私たちはイエスの愛の中にとどまるよう命じられています。
そして、その愛の質は、父なる神がイエスを愛されたのと同じ愛であり、イエスが私たちを愛してくださったのと同じ愛です。
私たちは、そのような愛の中にとどまるように召されています。
「とどまる」とは、つながり続けること、浸ること、生きることを意味します。
私たちは「イエスの愛にとどまる」ように召されているのです。
しかし、それは具体的にどういう意味でしょうか?
神の愛にとどまるとは?
これは、現代において特に難しいことです。
私たちが生きているこの文化は自己中心的であり、愛が「自分のためのもの」になってしまっています。
「あなたを愛している」という言葉が、しばしば次のような意味になってしまいます。
「あなたが欲しい」「あなたを渇望する」「あなたがいないと寂しい」「あなたが私を満たしてくれるから愛している」「あなたといると幸せだから愛している」
このような状況だからこそ、私たちはしっかりと理解する必要があります。
「愛」とは何か?
神が言われる「愛」とは何か?
神の愛—しばしばアガペーの愛と呼ばれるこの愛は、しばしば「慈愛(charity)」と訳されます。それは自己犠牲的であり、愛する者に対して完全に献身することを意味する愛です。
この愛は無条件であり、愛される者の反応に関わらず変わることはありません。
私たちがとどまるべき愛について、本日の本文において使われている言葉が「アガペー」であることは、驚くことではないでしょう。
そしてイエスは、この愛の本質をさらに明確に示されました。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」(ヨハネ15:9)
聖書の中で、父なる神がイエスをどのように愛されたのかを見ることができます。
イエスの生涯において
二度、父なる神の愛が明確に示されました。一つはイエスのバプテスマの時、もう一つはマタイ17章に記録されている変貌の出来事においてです。
その時、神の言葉が響きました。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼に聞け。」
ヨハネ3:35ではこう記されています。
「父は御子を愛しておられ、すべてのものをその手にお渡しになった。」
神のイエスに対する愛は無条件であり、惜しみなく与えられる愛でした。
そして、この愛は…
イエスが私たちに注いでおられる愛と同じ愛なのです!
そして、私たちにこの愛の中にとどまるように命じておられます。

聖書が語る神の最大の戒めとは何でしょうか?
「あなたの心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタイ22:37)
神を愛することが、私たちの霊的な歩みの基盤です。
しかし、私たちは忘れてはなりません。
「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」(1ヨハネ4:19)
聖書は、罪が世界に入ったことによって、人類は神を憎み、神の敵となったと語っています。
しかし、神は私たちを愛し、御子を遣わして私たちのために死なせることによって、私たちが神と和解できるようにしてくださいました。そして、神に信頼を置いたすべての人は、神の子どもとされました。
イエスは、私たちのためにご自身を犠牲にし、神に従うことによって、私たちへの愛と神への愛を示されました。
これが、神が私たちを愛する方法です。
そして、神は私たちにもそのように愛するよう求めておられます。
私たちは、その愛の中にとどまるべきです。

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はありません。」(ヨハネ15:13)
神の愛は自己犠牲です。 その愛の中にとどまることは、イエスの犠牲とつながることです。
それが、私たちが定期的に聖餐を行う理由の一つです。
私たちは思い起こし、感謝し、さらにはこの犠牲の愛にあずかるべきなのです。

みなさん… これ以上に重要な真理はありません! 神はあなたを愛しておられます!

さて、10-12節を見てみましょう。
10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
(ヨハネ15:10-12)

私たちは「神を愛する」ように召されています。
神の戒めを守ることによって
神とその御業のために犠牲を払うことによって
神は私たちに、単なる感情ではなく、従順と犠牲をもってご自身への愛を示すよう求めています。
ここでイエスは、最も重要な戒めが「互いに愛し合うこと」であることを強調されています。 それは、時には互いのために犠牲を払うことも含みます。
私たちは、神の愛にとどまるように召されています。ただ神の存在を信じるだけではなく、従順と犠牲をもって神を愛することによって。

これは難しいことのように聞こえるかもしれません。しかし、この愛こそが人生を豊かにするのです。
結婚生活においても、真に価値のある愛は「献身的で犠牲的な愛」です。それこそが試練を乗り越える力となります。
結婚が強く、友情が深まり、家族関係が健全であるのは、献身的で犠牲的な愛があるときです。 自分のことよりも相手の必要を優先する愛。
私たちの心が「神の愛にとどまる」とき、私たちの思いも神へと向かうのです。
「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)

問われるのは、「私たちは神を(アガパオ)愛しているのか?」
「私たちは、イエスが命じたように互いに(アガペー)愛しているのか?」
多くの人が「個人的な幸福」を人生の最終目標として求めています。 他者の承認、権力、富、快楽を追い求める人もいます。
しかし、私たちがイエスの愛にとどまるとき、私たちは自分の幸福よりも神の御心を求めるようになります。
すると、不思議なことに、私たちの喜びも幸福も満ち溢れるのです!
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ15:11)

結論として、私たちの「行動」が、神の愛にとどまっているかどうかを示します。
したがって、神を愛するとは…
犠牲を払って神に献身すること(私たちの召命は、神に仕えることです。)
忠実に神に従い、自分の意志ではなく神の意志を選ぶこと
本当の幸福を神のうちに見いだすこと(神こそが真の喜びの源です。)

愛は試されます。それは「犠牲」の時にこそ、真価が問われるのです。
現代社会では、多くの人が困難なときに愛を手放してしまいます。
しかし、神は私たちが最も必要としているときに、私たちを見捨てませんでした!
神は、ご自身の子どもたちのためにイエスを遣わし、私たちのために御自身を犠牲にされました。
そして、イエスもまた、父なる神と共に、強制ではなく愛のゆえに、自らのいのちを私たちに捧げられたのです。
それは感情的な「温かい気持ち」ではなく、決意と献身、自己犠牲をもって私たちを愛するためでした。
私たちも、この愛にとどまり続けましょう。