信仰生活とは


2024年11月17日
聖書箇所:ピリピ3:4ー9
4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

 先週は、主にある喜びを持つ人が本当に救われている人であるとお話ししました。主とは、イエスキリストであって、イエスキリストをメシアとして受け入れることが救いの方法なのです。パウロはこの3章で、当時の教会に入ってきたユダヤ教主義の問題について教えています。ユダヤ教主義とは、律法を行わなければ救われないという一つの宗教です。

イントロ
昔、マックスルケードという牧師が書いた「大切な君」という絵本がありました。日本でも子ども向けの絵本として大ヒットして、クリスチャンだけではなくノンクリスチャンの人たちも自分の子どもたちに読ませました。登場人物は人形です。何をしてもうまくいかない不器用な主人公です。その村では、良い事や立派な事をすると星シールを服に着けてくれます。そして、失敗したり、愚かな事をするとダメ印シールがつけられるのです。主人公のパンチネロの服には多くのダメ印シールがつけられていました。そんな時に、ルシアというどんなシールもついていない人形に会います。その人形には周りがダメ印シールをつけようとしても、落ちてしまうのです。ルシアはその秘密を教えてくれます。それは、人形の作り主のエリのところに毎日行くことです。エリと会って話すとシールの力がなくなってしまうのです。エリはシールによってはあなたの価値は変わらないよ、と確信させてくれるからです。
 さて、ルケードは牧師ですから、聖書の大事な真理を書いているのです。エリとは神様のことです。神様のところに日々行くならば、自分が誰なのかを確信させてくださるという事です。先週から続いている、主にある喜びとは、主にあって自分はどういう存在かを知ることでもあるのです。
 今日は、パウロが自分の証をしています。彼は世の中的にはとても恵まれていた人でした。良い生まれ、良い育ち、良い教育、良い職業、良い社会的な地位を持っていました。みんながあこがれるような人生です。また、ローマ人の市民権も持っていましたから、社会のトップに居た人です。
 今で言えば、名家の出身で、一流の大学をトップで卒業して、国の中で重要なポストに就くことができる人でしょう。その彼が、自分の地位と財産をゴミだと言っているのです。 
 ですから、当時の人たちはパウロを狂信者と呼びました。しかし、パウロは理性を失ってはいませんでした。むしろ、理性は誰よりも冴えていました。彼は人生の最も大事なことがお金やこの世の名誉ではなく、キリストであると悟ったからです。
 今日は彼の人生を前半と後半に分けてお話します。まず、前半は、彼の熱心な努力にもかかわらず、神に認められない人生です。

神に認められない人生 
 4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
 パウロはユダヤ教という宗教を熱心にしていました。彼はユダヤ教が真理だと思っていたからです。ユダヤ教は、律法を守ることによって救われるという事と同時に、生まれが大事でした。ユダヤ人の中でも特権階級に生まれることで、その救いは確実であり、神に特別に愛されていると教えられていたのです。
6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
 ですから、パウロは生まれた環境と本人の努力で一生懸命ユダヤ教という宗教を頑張りました。
 しかし、律法による義というのは、神様に認められる義ではありません。当時のユダヤ教では、パリサイ人たちがある一定の基準をクリアしたら、神様に認められると教えていました。しかし、イエスが来てそれは間違いであると示したのです。イエスは義を行うことで神に認められるためには、完全でなければならないと教えたのです。

マタイ5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

しかし、彼は自分が間違っていることを悟ったのです。彼の場合は、直接主イエスが現れることで自分の間違いがわかりました。
 彼がクリスチャンを迫害している最中に、主イエスが幻の中で現れました。
 使徒9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

 彼は目が開かれ、その時からユダヤ教を捨て、クリスチャンになったのです。彼は迫害する者から迫害される者になりました。
 さて、彼の生き方は180度変わりました。それが今日の箇所の後半です。
7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
 得とは、救いのために役立つと思っていたものです。しかし、本当の救いを知った時にそれらは損であったと思うようになったのです。
 それは、行いは宗教的な満足感と優越感にしかなりません。そのようなものは、神様の前の高慢にしかならないのです。
 救いとは、自分では何もできないと悟ることなのです。良い行いも神様の前にはむなしい努力に過ぎないことを悟ることなのです。自分の中に神様を喜ばせる良いものは何一つないことを知ることなのです。自分を救ってくれるのはただイエスキリストの恵みだけによることを知るのです。主イエスとの出会いによって、彼の人生は後半になります。

II. 神に認められる人生
 8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
 ちりあくたとは、ゴミという事です。ゴミとは捨てるべきものです。ゴミかゴミでないかの区別は、必要かどうか、です。
 パウロが前半の人生で大切だと思っていたものは、実は必要ではないものとわかったのです。パウロがここでゴミと言っているものは、自分の目と心をキリストから引き離す全てのものと言うことができます。それは、世と世にあるもの、と表現することができます。

1ヨハネ2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
 
 世とは私たちの肉にアピールし、その背後には悪魔がいます。彼はクリスチャンの人生を再び世に戻そうとしているのです。 
 ある人は、「世の中のこともいろいろと考えなければならない。」お金がなければ生きていけない。貯金もしなければ家を買えない。熱心に働かなければ良い生活ができない。そして、この世のことを優先して、神様のことを後まわしにするのです。
 しかし、イエスはこう言いました。
マタイ6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
 優先順位の第一の神様のことである。それ以外のことは、神様が与えてくださる、と。 
 この言葉を信じて生きている時に、神様のことも、他のことも与えられる人生となるのです。
 私たちが頼るものがたくさんあるとき、神様は第何番目になるでしょうか。もし、必要がすべて満たされて、問題も起こらない時に、それでも「神様、神様」と真剣に祈り、求めるでしょうか。普通は、神様から自然と遠ざかるのではないか、と思います。もちろん「感謝します」と祈りますが、それほど、神様中心にはならないと思います。
 私たちは何か物事がうまくいくと「いやあ、自分もまんざらではないじゃないか。これはできるぞ」とそれまでは小さくなっていた自分の欲が出てくるのではないかと思うのです。

9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
 
 義とは、神から義とされることです。「死ねば仏となる」という文化の中で、多くの人が適当に生きていても、死後に裁きを受けるとは思っていません。

キリストのうちに自分を見出すとは、まさしく、自分がキリストによって救われているという確信です。そして、キリストの恵みの中に生きているということでです。言い換えれば、キリストとつながっている、まさしく、ぶどうの木にしっかりと枝がつながっている状態です。自分の欲やプライドを捨てて、いつも、主イエスにつながっている状態です。いつも、「主よ」という祈りが絶えない信仰生活です。

 最後に、私たちは希望によって生きています。希望とは、人生で最も大事なものだと思います。人は希望があるから生きれるのです。人生とは、希望に向かって進むものです。しかし、世が与える希望は本当の希望ではありません。世の中が与えるものはすべてが一時的だからです。本当の希望は、義人となり永遠に生きることです。それはこの世が与えるどんな幸福感や満足感よりも大きなものです。神にある希望は、神が約束しているので確実に実現します。クリスチャンは、この世が与えることのできない希望に向かって進んでいるのです。この希望から眼をそらされないようにしましょう。
 今日は、信仰生活を考えました。救われるためには何もしません、というかできません。しかし、救われた後には、信仰の道をひたすら歩まなければならないのです。そして、それはイージーな生き方ではありません。救われた後は罪と肉の欲を捨て去ることが求められているのです。信仰生活とは、内側にある罪の性質が消えて行くことなのです。そして、信仰生活とは死ぬまでのレースです。マラソンレースのようなものです。マラソンで大事なのは、途中でやめないでゴールすることです。感謝なことに私たちのレースは他人との競争ではありません。過去の自分との競争です。昨日よりも今日、今日よりも明日がゴールに近づいていれば良いのです。
祈りましょう。

Living a Life of Faith
November 17, 2024
Scripture: Philippians 3:4–9 (ESV)
4 Though I myself have reason for confidence in the flesh also. If anyone else thinks he has reason for confidence in the flesh, I have more:
5 circumcised on the eighth day, of the people of Israel, of the tribe of Benjamin, a Hebrew of Hebrews; as to the law, a Pharisee;
6 as to zeal, a persecutor of the church; as to righteousness under the law, blameless.
7 But whatever gain I had, I counted as loss for the sake of Christ.
8 Indeed, I count everything as loss because of the surpassing worth of knowing Christ Jesus my Lord. For his sake I have suffered the loss of all things and count them as rubbish, in order that I may gain Christ
9 and be found in him, not having a righteousness of my own that comes from the law, but that which comes through faith in Christ, the righteousness from God that depends on faith—

Introduction
Once, a pastor named Max Lucado wrote a book called You Are Special. This book became a bestseller in Japan, loved by both Christians and non-Christians who read it to their children. The story features a character named Punchinello, a wooden puppet who always struggles and fails.
In the village where Punchinello lives, puppets are rewarded with star stickers for their achievements and given dot stickers for their failures. Punchinello's body is covered in dots. One day, he meets Lucia, a puppet with no stickers at all. Even when others try to put dots or stars on her, they fall off.
Lucia reveals her secret: she visits Eli, the woodcarver and her maker, every day. By spending time with Eli, Lucia becomes free from the opinions of others because Eli reminds her that her value is not determined by stickers.
This story reflects biblical truth. Eli represents God, and we, too, can find our true worth by coming to God daily. Knowing who we are in Christ brings the joy that comes from the Lord. Today, we will explore Paul's testimony, his remarkable background, and how he came to see Christ as the most important aspect of his life.

I. A Life Not Approved by God
In verses 4 and 5, Paul recounts his privileged background. He was circumcised on the eighth day, belonged to the tribe of Benjamin, and was a Hebrew of Hebrews. As a Pharisee, he strictly followed the law and was blameless in terms of legalistic righteousness.
However, Paul realized that human effort and heritage could not earn God’s approval. In Matthew 5:48, Jesus says, “You therefore must be perfect, as your heavenly Father is perfect.” This standard of perfection revealed the futility of self-righteousness.
Paul’s transformation began when the risen Christ appeared to him on the road to Damascus (Acts 9:5). Paul, once a persecutor of Christians, became a devoted follower of Christ. His life was radically transformed.

A Life Approved by God
In verses 7–9, Paul declares that what he once considered gain, he now regards as loss for the sake of Christ. All his achievements, status, and possessions became meaningless compared to knowing Christ. Paul describes these things as “rubbish” because they distract from what truly matters.
This shift in values highlights the principle of seeking God above all else. As 1 John 2:15 warns, “Do not love the world or the things in the world. If anyone loves the world, the love of the Father is not in him.”
Jesus emphasized this in Matthew 6:33: “But seek first the kingdom of God and his righteousness, and all these things will be added to you.” When we prioritize God, He provides for our needs, enabling us to live lives centered on Him.
Paul’s goal was to be found in Christ, relying not on his own righteousness but on the righteousness that comes through faith in Christ. This is the essence of true salvation.

The Hope of Faith
Living a life of faith means staying connected to Christ, like branches to a vine. This connection provides strength, hope, and eternal life. Unlike worldly hopes, which are fleeting, the hope God gives is eternal and assured because it is grounded in His promises.
Christians are called to fix their eyes on this eternal hope and walk faithfully on the path of faith. The journey of faith involves surrendering our desires and pride, remaining in constant prayer and reliance on Jesus.

Conclusion
The life of faith is not an easy path. While salvation is a gift of grace, following Christ requires us to let go of sin and worldly desires. It is like running a marathon, where perseverance is key. Our race is not a competition with others but a personal journey to grow closer to Christ each day.
Let us run this race with faith, striving to grow daily and reach the eternal goal set before us.
Let us pray.