主にある喜び


2024年11月10日
聖書箇所:ピリピ3:1-3
1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。
2 どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。
3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。

イントロ:
キリスト教とはどういう宗教ですか。と聞かれてどう答えますか。
ある人が「喜びの宗教」と答えました。先日、ある兄弟が教会にきて、「イエスさまに出会った喜びで満たされています。不状況は別に変わらないですが、心の中から喜びがあふれてくるのです。」といいました。その兄弟は、キリスト教とは聖書の教えを守るだけの宗教と考えていたのです。しかし、彼は宗教的な努力が信仰生活ではなく、主イエスとつながることが信仰生活ということがわかったのです。

今日の個所でパウロは「喜びのある信仰生活こそ、本物の信仰生活である」と言っているのです。

 普通、喜びとは、物事がうまくいくからとか、お金がたくさんあるから、好きな事ができるから嬉しくなります。しかし、クリスチャンの喜びは本質的に違います。今日は、「主にある喜び」を共に考えてみましょう。

 1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。

 「最後に」とは、普通は手紙の最後に書きます。しかし、ここでの最後とは、そういう意味ではありません。なにしろ、まだ手紙の半分が残っているからです。ここは、テーマを変えているということです。また、パウロが重要だと思っている事を書くからです。

 1、2章で、パウロは自分の置かれている現状の報告、教会が一致することの大切さ、そのために主イエスの謙遜に真似るようにとの教え、また、テモテやエパフロデトという教会を愛する人達の話をしてきました。この3章では当時教会に間違った教えを持ち込もうとしている人達を見破るようにと教えが続きます。その中で、間違った教えと正しい教えの違いが「主にあって喜ぶ」事なのです。

 まず、主にあって喜ぶという事は、安全であるという事です。ここでの安全とは、確かなこととか、真理であるという意味です。

I. 真理を知るゆえの喜び
 人生にはいろいろな考え方があります。人は何かを信じながら生きていて、もし神様がいないのなら、どんな考え方でも、人に迷惑をかけなければ自由です。たとえば、「お金が全て」と考えて一生懸命働いてお金持ちを目指すのも、他人を傷つけない限り、それなりに幸せを感じられるでしょう。また、仕事や恋愛、趣味などで喜びを見つけることも、他人に迷惑をかけず、自分の健康を害さなければ良いことです。
でも、もし神様がいるなら話は変わります。神様が私たちを作ったのなら、私たちは神様に対して責任ある生き方をする必要があります。これは、オーナー(持ち主)とマネージャー(管理者)の関係に似ています。マネージャーは任されているだけで、オーナーの指示に従わなければなりません。
私たちが人生を考えるとき、オーナーとして生きるのか、マネージャーとして生きるのかは重要です。もし私たちがマネージャーなら、オーナーの言葉が絶対です。そして、そのオーナーである神様の言葉こそが真理です。この真理をゆがめようとするのが悪魔で、悪魔が使う手段に宗教や無神論があるという考えです。

2 どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。

 「犬」という言葉は、当時のユダヤ社会では「異邦人(ユダヤ人以外の人々)」を指すものでした。ユダヤ人にとって、異邦人は違う神様を信じている人々を意味していました。ここでパウロが「犬」と呼んでいるのは、間違った教えを教会に持ち込む人たちのことです。

「気をつけて」とは、今で言う「セキュリティ」と同じような意味です。泥棒や強盗、人殺しなどの危険から自分を守ることを指します。同様に、間違った教えを広める人たちからも、私たちを守る必要があります。大切な信仰が彼らによって奪われないようにしなければなりません。

パウロの時代、典型的な偽教師は「律法主義者」でした。彼らは、イエスや使徒たちが戦った相手であり、パウロの時代の教会にとっても大きな敵でした。ここで「敵」というのは、暴力で争う相手ではなく、真理をゆがめて福音を分かりにくくしてしまう存在という意味です。

当時の律法主義者とは、ユダヤ教の教えに強くこだわる人々です。彼らはイエスをメシアとして受け入れていましたが、「律法を守らなければ救われない」と教えていました。パウロは「ガラテヤ人への手紙」で、律法を救いの条件にするならば、それは真理から外れ、律法の束縛に逆戻りすることだと警告しています。

ガラテヤ 5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

 割礼とは、ユダヤ人になるための儀式です。ユダヤ人になるということは、ユダヤ教を行うことで救われるという教えを受け入れる事になってしまうのです。これはユダヤ人にならなければ救いはない、と言っているのと同じです。イエスはユダヤ人を救うために来たのではなく、イエスを信じる全ての人を救い出すために来たのです。そして、イエスを信じるとは、イエスのかかった十字架が自分の罪のためであると受け入れる人たちのことです。

 3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。

 宗教とは、基本的に律法主義です。偉い人たちの命令や慣習やルールに対して、それに従わない人たちは救われていないか救いを失うと言って脅すのです。恐怖で縛ります。暇で能力がある人は、そのような命令を守ることができますが、忙しい人や弱い人たちはルールを守れません。そうすると、その人たちはアウトになってしまうのです。福音は全く違います。福音は、自分の力ではなく、キリストの力によって救われるのです。行いは関係ないのです。行いとは、人間的なものを頼みとすることです。クリスチャンは自分の力ではなく、キリストの力だけに頼るのです。ですから、本来の聖書の言う割礼の意味はユダヤ人になるという意味ではなく、神の用意されたキリストによる救いを受け入れます、という意味なのです。旧約時代は、神様がユダヤ人たちを周辺国家と同化しないようにするために、割礼が必要でした。しかし、新約時代に割礼の意味は聖霊の内在による心の割礼に置き換えられました。

 ローマ 2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

 ですから、主にある喜びとは、まず真理を知るゆえの喜びです。神がおられると信じる人生を生きるならば、死後大きな喜びが待っています。神の存在は科学では証明することはできません。しかし、それは同時に神がいないことも証明することができないのです。神がいる方に人生をかける人は、本当に神がいたら良い人生を送ったと評価されます。神がいない方にかけた人は、神がいたら大変な事になります。

 しかし、真理を知っていることだけが、主にある喜びではありません。3節の前半には、「神の御霊によって礼拝する」と書かれています。これは、言いかれば「主につながる喜び」ということができます。

II.主とつながる喜び
 主とつながっている喜びは、主イエスと関係があるゆえの喜びです。主イエスを受け入れるならば、聖霊が内在してくれます。聖霊は私たちの霊を生まれ変えらせ、真理の道へと導かれる神ご自身です。この聖霊の働きによって、私たちは霊的な命があり、霊的な命は父なる神、主イエスキリストとつながるのです。

3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。

 主とつながるために必要なのは、聖霊が内側に来られることです。聖霊を受ける条件は、イエスをキリストとして受け入れることだけです。キリストとは、イエスの苗字ではなく、油注がれた人という意味です。旧約時代は、祭司、預言者、王様という三種類の人たちに油を注ぎました。この三つの働きをすべて持つ人が、キリスト、つまり、メシア なのです。メシアは祭司の働きで私たちと神様をつなげてくれます。メシアは預言者の働きで神の言葉を教えます。そして、メシアは王なる方なので、私たちが従うべき存在なのです。ですから、イエスをキリストとして受け入れる事は、イエスを王としても受け入れる事なのです。
 
 礼拝というと、習慣的に教会に来て、椅子に座れば礼拝はできます。日曜日の1時間半の時間を捧げれば、礼拝したことになります。しかし、聖書の礼拝はもっと霊的です。聖霊は、私たちが心から主を賛美し、喜びに満たされるように働いてくださるのです。
 一番大きな霊的な祝福は、わたしたちがキリストによって神と繋がっていることがわかることです。神が私たちを愛してくださることがわかることです。私たちが罪人でも許されていることがわかることです。それは、知的な理解を超えています。知的な理解に聖霊が確信を与えてくださるのです。

 主イエスは、霊とまことによる礼拝こそが本当の礼拝であると言いました。
ヨハネ4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 ですから、本当の礼拝者は霊的に礼拝を捧げる人です。

 霊的というとわかりにくいので、少し説明します。

 ローマ人への手紙5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 これは真理の言葉です。しかし、この言葉を読めば知的に理解できます。そうか、神様は罪人のわたしを愛してくれていたのか。そして、わたしの罪を赦すためにキリストが十字架にかかってくださったのか、と。しかし、知的な理解は心に感動を与えることはできません。しかし、聖霊が働く時にこの言葉が確信となり、心が感動するのです。

 もう一つの言葉を読みましょう。
エペソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 これも聖書が語る真理の言葉です。知的な理解としては、行いではなく神様のプレゼントによって救われるのだとわかります。しかし、聖霊の働きがなければそれで終わります。しかし、聖霊の働きがある時に、わたしは救われているという感動を与えるのです。

 聖霊の働きは感情と似ていますが、感情的な高まりではありません。聖霊は苦しい時にも、辛い時にも、それを喜びに変える力を持っているからです。

 クリスチャンの人生は、どちらかというと苦しい人生です。苦しい中でも喜ぶことができる人生です。福音は、歴史の中で弱い立場の人たちに受け入れられてきました。そして、弱い人たちを喜びで満たし、力を与えて来たのです。イエスの時代には、女性や奴隷たち。そして、ローマ帝国時代には、何度も大きな迫害に遭いました。宗教改革前後には、カトリック教会から迫害されました。そして、イギリス国教会から迫害されたピューリタンやメノナイト信徒が北アメリカ大陸に逃げてきました。その後、アメリカの黒人奴隷たちに受け入れられました。そして、搾取、迫害されてきた東南アジアやアフリカの国々の人たち。最近では、中東の人たちにも届いています。聖霊は、福音を聞いた人たちに働きかけ、霊的に新しく生まれさせ、真理の言葉が響くようにさせるのです。それが霊的に神様とつながるということです。

 神様とつながると現実世界の生きていても、喜びがあります。それは、大笑いするような喜びとは違います。心の底から湧いて出てくる喜びです。

 時には、それは強い力となり、宣教師にさせます。しかし、聖霊の喜びは世の中にいる派手な喜びとは違います。時に、私たちは派手や喜びを求めます。そして、お金や名誉や快楽を求めます。しかし、それらは一時的で、すぐに戻ってしまいます。依存症とは、戻ってしまうので、すぐに次のものを求めることです。つまり、ドーパミンで喜ぼうとするのです。しかし、ドーパミンは同じ刺激ではもう喜べないのです。それで、もっと大きな刺激が必要となるのです。

 聖霊の喜びにさらなる刺激は必要ありません。それは満足する喜びでもあります。今の環境で喜べます。そして、その喜びは永続していきます。神は私たちが聖霊の喜びで満たされることを願っています。それは、確かな永続する喜びであるからです。

 祈りましょう。
 父なる神様、私たちに真理を教えてくださり感謝します。それを知らないでは、間違った人生を生きてしまいます。また、聖霊によって真理がわかるようにしてくださり感謝します。また、聖霊の働きによって、私たちが神様と霊的につながるようにしてくださり感謝します。私たちは父なる神様と祈りますが、聖霊の働きによって私たちの罪が赦されたこと、神の子どもとして受け入れられたことを知ることができて感謝します。世の中にはいろいろな宗教、無神論、また、間違った情報があふれています。どうぞ、正しい情報を見分ける力を与えてください。

Joy in the Lord

November 10, 2024
Scripture: Philippians 3:1-3

Introduction: How would you answer if someone asked, "What is Christianity?" Some might respond by calling it a "religion of joy." Recently, a brother shared at church, "I am filled with joy after encountering Jesus. My circumstances haven’t changed, but I feel joy welling up from within." He had thought Christianity was simply a religion of following the Bible's teachings. However, he realized that true faith is not about religious effort but about being connected with the Lord Jesus.
In today’s passage, Paul emphasizes that a joyful life of faith is the essence of true faith.
Usually, joy comes from things going well, having enough money, or being able to do what we like. But Christian joy is fundamentally different. Today, let’s consider together what it means to have “joy in the Lord.”

Philippians 3:1 – “Finally, my brothers, rejoice in the Lord. To write the same things to you is no trouble to me and is safe for you.” (ESV)
The phrase “finally” would usually come near the end of a letter, but here it signals a shift in focus. Paul is transitioning to a new and important topic.
In chapters 1 and 2, Paul shared an update on his situation, the importance of unity in the church, and following the example of Jesus' humility. He also mentioned devoted workers like Timothy and Epaphroditus. Now, in chapter 3, Paul addresses people who were trying to introduce incorrect teachings to the church, showing the difference between wrong and right beliefs through “rejoicing in the Lord.”
Rejoicing in the Lord means being secure in the truth. Here, “security” signifies something reliable and true.

I. The Joy of Knowing the Truth
There are many perspectives in life. People live believing in something, and if God didn’t exist, any belief would be acceptable as long as it doesn’t harm others. For example, if someone believes that “money is everything” and works hard to become rich, they may feel some happiness as long as they don’t harm others. Similarly, finding joy in work, relationships, or hobbies can be positive, as long as it doesn’t harm others or one’s health.
However, if God does exist, things are different. If God created us, then we need to live responsibly before Him. This is like the relationship between an owner and a manager. A manager is entrusted with the owner’s property and must follow the owner’s directions.
When we think about life, it’s crucial to consider whether we are living as an “owner” or a “manager.” If we are managers, then the owner’s word is absolute. And the word of God, our Creator, is the truth. The enemy tries to distort this truth, using religion or atheism to draw people away.

Philippians 3:2 – “Look out for the dogs, look out for the evildoers, look out for those who mutilate the flesh.” (ESV)
In ancient Jewish society, “dogs” referred to Gentiles, who were people outside the Jewish faith and were seen as those who worshipped different gods. Here, Paul uses “dogs” to describe people bringing false teachings into the church.
“Look out” in this context is similar to modern-day “safety” or “security” from danger. Just as we protect ourselves from thieves, we must guard ourselves from those who spread false teachings, so they don’t rob us of our faith.
During Paul’s time, typical false teachers were “legalists.” They were not enemies in a violent sense, but they distorted the truth, making the gospel hard to understand. Legalists held firmly to Jewish laws and customs. Though they accepted Jesus as the Messiah, they taught that people wouldn’t be saved without following the law. In Galatians, Paul warns that relying on the law for salvation means falling back into bondage.

Galatians 5:1 – “For freedom Christ has set us free; stand firm therefore, and do not submit again to a yoke of slavery.” (ESV)
“Mutilate the flesh” is about circumcision which was a ritual for becoming Jewish. By becoming Jewish, one would essentially be accepting that salvation comes through following Jewish laws. This implies that salvation is only for Jews. But Jesus didn’t come just to save Jews—He came to save all who believe in Him. Believing in Jesus means accepting that His death on the cross was for our sins.

Philippians 3:3 – “For we are the circumcision, who worship by the Spirit of God and glory in Christ Jesus and put no confidence in the flesh.” (ESV)
Religion often follows a “legalistic” approach, relying on rules and traditions. Those who cannot follow these rules may feel excluded or threatened. But the gospel is entirely different. It says we are saved by Christ’s power, not our own. Christians rely on Jesus’ strength, not human effort. Therefore, in the Bible, the true meaning of circumcision is not about becoming Jewish but about accepting salvation through Christ, which God has prepared for us. In the Old Testament, circumcision helped keep Jews distinct from surrounding nations, but in the New Testament, its meaning has been replaced by the “circumcision of the heart” through the Holy Spirit.

Romans 2:29 – “But a Jew is one inwardly, and circumcision is a matter of the heart, by the Spirit, not by the letter. His praise is not from man but from God.” (ESV)

Therefore, joy in the Lord begins with the joy of knowing the truth. If we live believing in God, we have a great joy waiting for us beyond this life. Science cannot prove God’s existence, but it cannot disprove Him either. Those who trust in God will see that they have lived a good life if He is real. But those who ignore God may face consequences if He exists.
However, simply knowing the truth is not the only joy in the Lord. Philippians 3:3 also speaks about “worship by the Spirit.” We could call this the “joy of connection with the Lord.”

II. The Joy of Connection with the Lord
The joy of connection with the Lord comes from being in relationship with Jesus. When we accept Jesus, the Holy Spirit lives within us. The Holy Spirit gives us new life, guiding us in the way of truth. Through the Spirit’s work, we have a spiritual life connected to the Father and Jesus Christ.
Philippians 3:3 – “For we are the circumcision, who worship by the Spirit of God and glory in Christ Jesus and put no confidence in the flesh.” (ESV)
Connecting with the Lord requires the Holy Spirit within us. We receive the Holy Spirit by accepting Jesus as the Messiah. “Messiah” means “anointed one.” In the Old Testament, priests, prophets, and kings were anointed. Jesus fulfills all three roles, connecting us to God as a priest, teaching us God’s word as a prophet, and leading us as our King. Accepting Jesus as the Messiah means accepting Him as our King.
When we think of worship, we might picture going to church, sitting in a chair, and spending an hour and a half in worship on Sunday. But in the Bible, worship is more than just a routine or habit. Worship in the Bible is deeply spiritual. The Holy Spirit helps us worship with joy, from our hearts, and fills us with true joy.
The greatest spiritual blessing we receive is knowing that we are connected to God through Christ. We understand that God loves us, even though we are sinners, and that we are forgiven. This is more than just knowledge; it’s a deep assurance that the Holy Spirit brings to our hearts.
Jesus taught that true worship is worship in spirit and in truth.
John 4:24 – “God is spirit, and those who worship him must worship in spirit and truth.” (ESV)
So, true worshipers are those who worship spiritually.
If "spiritual worship" sounds hard to understand, let’s explain a bit more.
Romans 5:8 – “But God shows his love for us in that while we were still sinners, Christ died for us.” (ESV)

This is a truth from the Bible. We can understand it intellectually by reading, "Yes, God loved me even when I was a sinner. Christ died to forgive my sins." However, intellectual understanding alone doesn’t touch our hearts. But when the Holy Spirit works in us, this truth becomes something we deeply feel and know with assurance, moving our hearts.
Let’s look at another verse.
Ephesians 2:8 – “For by grace you have been saved through faith. And this is not your own doing; it is the gift of God.” (ESV)
This verse also speaks a truth from the Bible. We can understand that we are saved by God’s gift, not by our works. But it doesn’t go deeper until the Holy Spirit works within us, giving us the deep assurance that we are truly saved.
The Holy Spirit’s work is similar to an emotion but not merely an emotional high. The Holy Spirit can bring joy, even in times of suffering or difficulty.

The Christian life is often challenging. But it’s a life where we can have joy even in difficult times. Throughout history, the gospel has reached people who were weak or oppressed, bringing them joy and strength. In Jesus’ time, it reached women and slaves. During the Roman Empire, many believers faced persecution. In the time of the Reformation, Protestants were persecuted by the Catholic Church. Puritans and Mennonites fled persecution to find freedom in North America. Later, enslaved Black people in America received the gospel, and today, people from Southeast Asia, Africa, and even the Middle East are embracing it. The Holy Spirit moves in those who hear the gospel, bringing them new spiritual life and making the truth of God’s word resonate with them. This is what it means to be spiritually connected to God.
When we are connected to God, we experience joy even as we live in the real world. It’s not always a joy that makes us laugh, but rather a joy that wells up from deep within.

Sometimes this joy gives people the strength to become missionaries. But the joy of the Holy Spirit is different from the flashy happiness of the world. Sometimes we seek flashy happiness, turning to money, fame, or pleasure. But these things are temporary and quickly fade. Addiction is a cycle of constantly chasing the next source of pleasure. It’s like trying to rely on dopamine for joy, but eventually, the same level of pleasure isn’t enough, and we need something more.
The joy of the Holy Spirit doesn’t need bigger and bigger doses. It’s a fulfilling joy. It allows us to be content in our current circumstances, and it endures. God wants us to be filled with the Holy Spirit’s joy because it’s a lasting, true joy.

Let us pray.
Father God, we thank you for teaching us the truth. Without it, we might live lives that are misguided. We thank you for the Holy Spirit, who helps us understand this truth. We also thank you that the Holy Spirit connects us spiritually to You. We pray to You, Father, knowing that through the Holy Spirit, we are forgiven and accepted as Your children. In this world filled with different religions, atheism, and misleading information, please give us the ability to recognize and hold on to the truth.