クリスチャンID
2024年8月4日
聖書箇所:ピリピ1:1-2
1 キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。
2 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
昔アーサーホーランド宣教師が口癖のようにこう言っていました。「キリスト教はreligion ではなくて、relationshipである」と。
religion、つまり、宗教とは知識的で、一方的です。イスラム教や仏教などは、経典を読み、一生懸命勉強します。そして、その経典の教えによって神様と結びつこうします。また、他の多くの宗教は、人間側から一方的に神を求めるものです。少しの霊的体験によって神を知ったつもりとなって、祈ったり、坐禅を組んだり、修行したりして神を求めますが、それが本当の神様なのかは誰もわかりません。一方で、聖書の神はご自身を教えようとする神様です。それは知識だけではなく、霊的な交わりによってでもです。聖書は創世記から黙示録まで、神と人格的な交わりをもった人たちの物語です。アブラハムは神に言われた通りに従う生活をしました。モーセは神と語り、ダビデも神と日々交わっていたので、詩篇を多く書きました。神はそれだけでは足りず、いよいよ神ご自身が人間の姿として来られました。それがイエスキリストです。12使徒を始めとした当時の人たちは、神と言葉をもって会話をすることができたのです。今の時代は聖霊なる神様が内側におられます。私たちは聖書をただ読むのではありません。聖霊が聖書を教えてくださるのです。ただ、漠然と祈っているのではありません。聖霊が祈りを導いてくださり、神と霊的な交わりができるのです。
もし、ただ知識や断片的な霊的体験だけで神を信じているならば、苦難の中で神に頼るとか、辛い時代の中で忍耐をもって過ごすことはできません。所詮は、知識だけでつながっている神様です。言い換えれば、本当にいるかどうかわからないのです。しかし、神との交わりを持っている人は、神を信頼することができます。人間的な助けよりも神の助けを求めます。辛くても、神の計画と知れば忍耐できます。それが信仰生活です。
今日からピリピ人への手紙を学びたいと思います。ピリピ人の手紙の一番大きなテーマとは「主にあって喜びなさい」です。「主にあって」とは、眼に見える現実ではなく、今は眼に見えない神の約束、祝福を信頼して喜ぶこととも言えます。
この手紙を書いた時のパウロはローマの牢獄にいると考えられています。ある程度の自由が許されていたので手紙が書けたのでしょうが、囚人ということは、いつ処刑されるかもわからない状況でもあるのです。
彼は、エパフロデトという人からピリピ教会の状況を聞いて、手紙を書く必要性を感じ、この手紙を書いたのです。
ピリピ教会について少し復習しましょう。パウロは第二次宣教宣教旅行で、アジア地方、今のトルコの西側の宣教を考えていました。しかし、夢の中にマケドニア人が現れて、「マケドニアに渡ってきて、私たちを助けて欲しい」との幻を見ました。それで、彼はマケドニアに渡ったのです。そして、マケドニア第一の殖民都市であるピリピへ行ったのです。ピリピには、ユダヤ人シナゴグがありませんでした。通常、彼はシナゴグに行って伝道したのです。それで、祈り場がある場所に行きました。そこで、ルデヤという婦人に福音を語りました。彼女は主イエスを受け入れ、バプテスマを受けました。そして、その家族も救われました。彼女の家がのちにピリピ教会となります。
しかし、そこで有名な物語が起こります。それは、パウロとシラスを憎む人たちが彼らのデマを風潮し、彼らを牢獄に入れてしまったのです。普通であれば、そのことで意気消沈し、不平や泣き言を言いますが、パウロたちは違いました。彼らは牢獄で賛美したのです。すると、そこで地震が起こりました。当時、看守は囚人を逃したら、厳罰でした。ですから、そこで看守は自殺しようとしました。しかし、その地震でもパウロは逃げず、この看守に福音を語ったのです。それを知った看守は彼らの賛美と自分へのパウロの行動によって主イエスを信じるようになったのです。
この牢獄での賛美は、ピリピ教会で語られ続けたはずです。パウロはその事を思い出させようと、喜びのテーマで手紙を書いたと思われます。まず、パウロ自体が当時と同じ囚人となっていて、彼自身も当時のように「主にあって喜んでいた」のです。
背景はこれくらいにして、1節を見て見ましょう。
ピリピ1:1 キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。
I. キリスト・イエスのしもべたち
まず、この書簡は「キリスト・イエスのしもべたち」と始まります。これはパウロの謙遜な姿勢を教えています。パウロにしてみれば、「自分は偉大な使徒である」とも、「今のあなたたちのあるのは、私のおかげだ」ということもできる人なのです。しかし、彼は自分のことを「しもべ」、つまり、奴隷という立場に置いているのです。
多くの人は牧師や教職が主のしもべだと思っています。しかし、私たちだけが主のしもべではありません。これは主を信じる者たち全員です。クリスチャンのアイデンティティは「主のしもべ」なのです。
ある人はしもべという身分に抵抗を持つかもしれません。「奴隷は悪い制度だ」と。しかし、神の奴隷ということは、非常にレベルの高い位置です。神という存在はこの世の中でトップですから、そのしもべとはどれくらい高い水準でしょうか。また、しもべとは神が必要として、用いてくださるということです。どれほどの特権かと思います。主イエスは私たちがしもべであっても、「友」とさえ呼んでくださるお方なのです。
実は、私たちは誰でもが、誰かのもとに、つまり、何らかの権威のもとにいます。親、社長、学校、国家等です。それら人間の権威に従うことも大切ですが、人は裏切り、搾取します。私たちが本当に信頼して、すべてを委ねても従うことができるお方は神だけです。神は私たちを愛するがゆえに、一人子さえお与えになられたお方だからです。
ですから、神のしもべとは特権であり、祝福であるのです。
さて、パウロはここでテモテという名前を出しています。テモテは三代目のクリスチャンです。おばあちゃんが熱心なクリスチャンだったのです。その信仰が母親に引き継がれ、テモテにも引き継がれたのです。彼は純粋で素直な信仰を持っていました。それで、パウロの右腕として活躍したのです。
なぜ、テモテがここに登場するかというと、パウロはテモテをピリピ教会に送ったことがあるからです。ですから、彼らはテモテからも指導を受けていたのです。
II. キリスト・イエスにある聖徒たち
次に、この書簡の宛先は、「ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち」と書かれています。聖徒とは英語でsaintsです。しかし、聖徒とは、何か偉大な働きをしたとか、偉い地位にある人たちのことではありません。
まず、聖徒とは聖なる生活、つまり、清く正しく生きている人という意味ではありません。「聖」とは聖別、つまり、分けられたという意味です。聖書がこの言葉を使うときは、神の側にいることです。つまり、罪の国から神の国に移動した人たちということです。つまり、神を信じて、信仰生活をしている人たちのことです。私たちも聖徒です。
しかし、聖徒という意味はもう一つあります。それは、神が私たちをいずれ「清い者」と変えていくことを確信しているので「聖徒」なのです。これは、自分を見る時にそうですし、他のクリスチャンを見る時もそうなのです。今は汚れているけれども、いずれは聖霊の働きによって聖とされていくのです。これを信じるために、信仰が必要ない人もいますが、大きな信仰が必要な人もいます。しかし、神の約束と力は、それを可能とするのです。
ところが、あるクリスチャンは勘違いして、「これでもう罪は赦されたからいいじゃないか。」とそれ以降の信仰生活があまり熱心でない方もいますが、そうではないのです。
聖書には、神は私たちが聖なる者となることを目標として、まず、罪を赦してくださったのです。今日の箇所の少し後の6節を読んで見ましょう。
ピリピ1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
つまり、私たちが聖なる者となることは神の計画の中にあるのです。
エペソ2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
神は私たちが良い行いをするように創られたのです。そして、良い行いをするようにとあらかじめ備えておられるのです。つまり、私たちが聖くなっていくことは、神が決められた自然のプロセスなのです。神の定められた計画に素直に聞き従えば良いのです。しかし、ある人たちは神の恵みに抵抗します。罪の道を選び続けます。しかし、それは痛みと苦難を伴う道です。主にお任せすれば、自然に聖くなっていくのです。
ですから、私たちはすでに聖徒ですが、今後は聖徒と呼ばれるのにふさわしい者となりましょう。
III. 教会を作り、成長させる者たち
また、「監督と執事」という言葉が出てきます。この監督とは牧師、長老という意味です。パウロは宣教の働きの中で、福音とともに教会を作り、リーダーたちを育てていったことがわかります。どんなに伝道しても、教会がなければ、救われた魂は主から離れてしまうのです。また、教会がその魂を養育し、教会のリーダーたちとならなければ、数年後に教会は消えてなくなります。今、世界の教会では、リーダーの次世代継承ができていません。一人のリーダーでは長くても40年です。その期間に、若いリーダーを育て、自分の後には次のリーダーが立っていかなければならないのです。
パウロは別の書簡で、弟子テモテにこのように教えています。
2テモテ2:2 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。
ですから、今の教会を大切にすると同時に、未来の教会のために祈ってください。教会の祝福は、現役世代から次世代に続かなければならないのです。また、教会が前進して、引き続き福音を語ることが必要です。次世代は、クリスチャンホームからも生まれますが、ノンクリスチャンからも生まれるのです。パウロ自身も、アンテオケ教会の宣教師でした。彼らを通して多くの異邦人たちが主を信じ、教会のリーダーとなっていったのです。次に、2節を読みましょう。
2 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
IV. 恵みと平安を祈る者たち IV. Prayers for Grace and Peace
ここで、パウロは、ピリピの教会に恵みと平安があるように祈っています。「恵みと平安」とは、誰でもが必要としていることだと思います。恵みとは、神のプレゼントです。プレゼントをもらうと嬉しいですね。それが神からであれば、なおさらです。また、平安とは心が恵まれている状態です。喜びとは、心が恵まれている状態とも言えます。クリスチャンの持つ平安とは、のどかな田園風景の中で何も問題も起こらない人生ではなく、現実には嵐が吹く中で、主が共にいてくださることを確信している平安な心です。神が与える平安は目に見えるところがどんな状態であっても持つことのできる心の平安です。
つまり、恵みとは神が与えてくださる現実的な祝福ですが、平安は今それが与えられていてもいなくても、神の真実を信じて心が平安でいることなのです。
私に関して言えば、日本にいれば問題はかなり少ないでしょう。自分の力でほとんどのことができました。日本の平和な風景の中で、同じ日常を繰り返していたのです。しかし、カナダに来てからそうわけにはいかなくなりました。まず、英語でコミュニケーションが思うように取れません。日本語であれば相手が誰でも、自分が聞き取れないことはありえないのです。しかし、英語は人によっては何を言っているのか全く理解できない時があります。
次に、立場です。日本に居たら、自分の国です。問題があれば、行政がなんとかしてくれますし、その保護を受ける権利を持っています。しかし、カナダでは外国人の一人です。カナダが私たち家族を守る必要性はありません。「嫌なら自分の国にお帰りください。」の一言で終わるのです。
最初は免許証ももらえず、IDがありませんでした。銀行口座も作れませんでした。コストコの会員になるためにパスポートを持っていったら、「カナダの免許証がなければダメです」と言われました。また、クレジットカードを作ることができませんでした。最初の数ヶ月は日本のクレジットカードで頑張りました。カナダドルがどんどん上がっていく時で、為替手数料をかなり取られました。家を借りるのも一苦労でした。しかし、その都度主の助けがありました。
しかし、この経験の中でわかったことが二つあります。一つは、自分の人生は自分がコントロールしているのではないということです。そして、そんなことはできないということです。全てが神の計画の中にあるのです。自分で多くのことができる時は、それを忘れしまいますが、自分でできなくなるとそれを実感するのです。
もう一つは、クリスチャンはどんな状況の中でも平安を持つことができるということです。神の愛と恵みは変わることがありません。神は状況を超えているお方です。神の前には、どんな現実も問題となりません。自分が神の子であることを思い出すことができれば、全能の神が共におられることので、恐れたり、心配する必要はないのです。ノンクリスチャンですべてを持っている人よりも、クリスチャンで何も持っていなくても主が共にいる方が安心できるのです。
これら二つのこと考える時に、自分のコントロールできない世界で、しかし、神が共にいてくださり万事を計画通りに進めてくださっていることが平安を与えるのです。
そして、このことはまた他のクリスチャンに対しての祈りになるのです。
私はとりなしの祈りをする時に、その人のことがわからないことが多々あります。その時に、このような祈りをします。「神様、あなたは彼、または彼女の問題を知っておられます。どうぞ、あなたのタイミングと方法でその問題を解決してください。ただ、今彼、彼女に平安を与えてください。そして、信仰をもってこの問題に対処できるように助けてください。」です。
パウロは実際に、彼の開拓した教会のために日々、このような祈りをしていたことでしょう。恵みと平安は誰もが必要としていることであり、神はその祈りに応えてくださるお方だからです。
私たちは祈りの具体的なリクエストを知らなくても、いつも祈ることができます。また、ノンクリスチャンにためにも祈れます。ノンクリスチャンの方々は、平安というと良いことが起こることと思うでしょう。しかし、もっとも素晴らしい平安は、全能の神様が共にいてくださることなのです。
祈りましょう。
Christian ID
August 4, 2024
Scripture: Philippians 1:1-2
As missionary Arthur Holland was fond of saying, "Christianity is not a religion, but a relationship.”
Religion is intellectual and one-sided. In Islam, Buddhism, and other religions, people read the scriptures and study them very hard. They try to connect with God through the teachings of those scriptures. Many other religions are one-sided, seeking God from the human side. They think they know God through a few spiritual experiences, and they seek God through prayer, zazen, and other forms of ascetic practice. On the other hand, the God of the Bible is a God who seeks to teach Himself. This is not only through knowledge, but also through spiritual fellowship. The Bible, from Genesis to Revelation, is the story of people who had personal communion with God. Abraham lived his life according to what God told him to do. Moses talked with God, and David had daily communion with God and wrote many Psalms. God was not satisfied with that, and finally God Himself came in human form. The people of that time, including the 12 apostles, were able to communicate with God through words. Today, God the Holy Spirit is inside. We do not just read the Bible. The Holy Spirit teaches us the Bible. We do not just pray vaguely. The Holy Spirit leads us in prayer, and we can have spiritual communion with God.
If you believe in God based only on knowledge and fragmentary spiritual experiences, you will not be able to rely on God in the midst of hardships or have patience in the midst of difficult times. After all, it is God who is connected only by knowledge. In other words, we don't know if He is really there. But those who have fellowship with God can trust Him. They seek God's help rather than human help. Even if it is hard, we can persevere if we know it is God's plan. That is the life of faith.
Today I would like to begin our study of the Epistle to the Philippians. The main theme of Philippians is "Rejoice in the Lord.” means to trust and rejoice in God's promises and blessings, which we cannot see at this time, rather than in the reality we can see.
Paul is thought to be in a Roman prison when he wrote this letter. He was allowed a certain amount of freedom so he could write the letter, but being a prisoner also meant that he could be executed at any moment.
He wrote this letter after hearing about the situation of the Philippian’s church from a man named Epaphroditus and feeling the need to write a letter.
Let's review a little about the Philippian church. On his second missionary journey, Paul was thinking of missions in the Asian region, west of what is now Turkey. However, he had a vision in which a Macedonian appeared to him in a dream and said, "I want you to come over to Macedonia and help us.” So he crossed over to Macedonia. He went to Philippi, the first colonial city in Macedonia. There was no Jewish synagogue in Philippi. Normally, he would go to a synagogue to evangelize. So he went to a place where there was a prayer gathering. There, he shared the gospel with a woman named Lydia. She accepted the Lord Jesus and was baptized. Her family was also saved. Her house later became the Philippian Church.
But then the famous story happened. It was those who hated Paul and Silas who spread falsehoods about them and put them in jail. Ordinarily, this would have been discouraging, and they would have grumbled and whined, but not Paul and his friends. They praised in the Lord in prison. Then there was an earthquake. In those days, the jailer was severely punished if he let a prisoner go out. So the jailer tried to commit suicide. However, Paul did not run away from the earthquake but told the jailer about the gospel. When the jailer learned of this, he came to believe in the Lord Jesus because of their praise and Paul's actions toward him.
This praise in prison should have continued to be spoken in the Philippian church. It is likely that Paul wrote his letter on the theme of joy to remind them of this. First of all, Paul himself was a prisoner as he was then, and he himself was "rejoicing in the Lord" as he was then.
So much for the background, let's look at verse 1.
Philippians 1:1 Paul and Timothy, servants of Christ Jesus, To all the saints in Christ Jesus at Philippi, together with the overseers and deacons.
I. Servants of Christ Jesus
First, the epistle begins, "Servants of Christ Jesus.” This teaches Paul's humility. For Paul, he is a man who can say either "I am a great apostle" or "You are what you are today because of me.” However, he places himself in the position of "servant," or slave.
Many people think that pastors and teachers are servants of the Lord. But we are not the Lord's servants alone. This is all of us who believe in the Lord. The identity of a Christian is "servant of the Lord.
Some people may resist the status of servant. Slavery is a bad system. But being a slave of God is a very high level position. God is the top being in the world, so how high a level is being His servant? Also, being a servant means that God needs and uses you. How privileged is that? The Lord Jesus is the one who even calls us "friends" even though we are His servants.
In fact, we are all under someone, that is, under some authority. Parents, presidents, schools, nations, etc. It is important to obey those human authorities, but people betray and exploit us. The only One in whom we can truly trust and obey even if we surrender everything to Him is God. God is the one who even gave His only begotten Son because He loves us so much.
Therefore, being a servant of God is a privilege and a blessing.
Now, Paul mentions the name Timothy here. Timothy is a third-generation Christian. His grandmother was a devoted Christian. That faith was passed on to his mother, and then to Timothy. He had a pure and honest faith. That is why he was Paul's right hand man.
The reason why Timothy is mentioned here is that Paul had sent Timothy to the Philippian church. So they had received instruction from Timothy as well.
II. the saints in Christ Jesus
Next, the letter is addressed to "all the saints in Christ Jesus at Philippi. Saints is saints in English. However, saints are not those who have done some great work or hold some great position.
First of all, saints do not mean those who live holy lives, that is, those who live clean and righteous lives. The word "holy" means sanctified, that is, set apart. When the Bible uses this word, it is to be on God's side. That is, people who have moved from the kingdom of sin to the kingdom of God. That is, people who believe in God and live a life of faith. We are also saints.
But there is another meaning of saints. We are "saints" because we are convinced that God will eventually transform us into "pure ones.” This is true when we look at ourselves, and it is also true when we look at other Christians. Although we are unclean now, we will eventually be made holy through the work of the Holy Spirit. Some people do not need faith to believe this, but others need great faith. But God's promise and power make it possible.
Some Christians, however, misunderstand and say, "Well, now my sins are forgiven, so that's good enough for me." But this is not so.
In the Bible, God first forgave our sins with the goal of making us holy. Let's read and look at verse 6 a little later in today's passage.
Philippians 1:6 being confident of this, that he who began a good work in you will carry it on to completion until the day of Christ Jesus.
In other words, it is in God's plan that we become holy.
Ephesians 2:10 For we are God's workmanship, created in Christ Jesus to do good works, which God prepared in advance for us to do.
For we are God's workmanship, created in Christ to do good works, which God prepared in advance for us to do. In other words, our becoming holy is a natural process that God has ordained. But some people resist God's grace. They continue to choose the path of sin. But it is a path that involves pain and hardship. If we leave it to the Lord, we will naturally become holy.
Therefore, we are already saints, but from now on let us be worthy to be called saints.
III. Those who build and grow the church
The words "overseer and steward" appear. Overseer means pastor or elder. We can see that Paul, in his missionary work, built the church with the gospel and raised up leaders. No matter how much evangelism is done, without the church, saved souls will be separated from the Lord. And if the church does not nurture those souls and become church leaders, the church will disappear after a few years. Right now, churches around the world are not able to pass on leaders to the next generation. One leader has 40 years at most. During that period, he must raise up young leaders, and the next leader must stand after him.
Paul teaches this to his disciple Timothy in another letter.
2 Timothy 2:2 And the things you have heard me say in the presence of many witnesses entrust to reliable men who will also be qualified to teach others.
Therefore, as you care for the church now, pray for the church in the future. The blessings of the church must continue from the present generation to the next. It is also necessary for the church to move forward and continue to speak the gospel. The next generation will come from the Christian home, but also from non-Christians. Paul himself was a missionary in the Antioch church. Through them, many Gentiles believed in the Lord and became church leaders. Next, let us read verse 2.
2 Grace and peace to you from God our Father and the Lord Jesus Christ.
IV. Prayers for Grace and Peace
Here Paul prays for grace and peace to be upon the church in Philippi. “Grace and peace" is something we all need. Grace is a gift from God. We are happy when we receive a gift. It is especially nice when it is from God. Peace is the state of a blessed heart. Joy is the state of a blessed heart. The peace that Christians have is not a life in the tranquil countryside where nothing goes wrong, but a peaceful heart that is confident that the Lord is with us when the storms blow. The peace that God gives is a peace of mind that we can have no matter what our visible condition is.
In other words, grace is a real blessing that God gives us, but peace is a mind at peace with the truth of God, whether it is given to us now or not.
As for me, I would have much less problems if I stayed in Japan. I could do most things by myself. I was repeating the same daily routine in the peaceful scenery of Japan. However, after coming to Canada, that is not the case anymore. First of all, I cannot communicate in English as much as I would like. In Japanese, it is impossible for me not to be able to hear what the other person is saying, no matter who he/she is. However, in English, there are times when I cannot understand what some people are saying at all.
Second, it is my position. If you are in Japan, it is your country. If there is a problem, the government will do something about it and you have the right to receive its protection. However, in Canada, we are one of the foreigners. There is no need for Canada to protect our family, saying “If you don't like here, go back to your own country." That is the end of the story.
At first, I could not get a driver's license. I could not even open a bank account. When I brought my passport to become a member of Costco, I was told, "You must have a Canadian driver's license.” Also, I could not get a credit card. For the first few months, I tried my best with a Japanese credit card. It was the time when Canadian dollar was going up and up, and I had to pay a lot of exchange commission. It was also hard to rent a house. However, the Lord helped me each time.
There were two things I learned through this experience. One is that I am not in control of my life. And that you can't do that. Everything is in God's plan. When you can do many things on your own, you forget that, but when you can't do them on your own, you realize it.
Another thing is that Christians can have peace in any situation. God's love and grace never change. God is beyond circumstances. Before God, no reality matters. If you can remember that you are a child of God, you do not need to fear or worry because God Almighty is with you. It is better to be a Christian and have the Lord with you even if you have nothing than to be a non-Christian and have everything.
When we think about these two things, it gives us peace to know that God is with us and has everything planned out for us in a world that we cannot control.
And this also becomes a prayer for other Christians.
Many times when I pray intercessory prayers, I don't know the person’s problems. At that time, I pray something like this, “God, You know his or her problem. Please solve the problem in your time and way. Just give him or her peace now. And help him or her to deal with this problem with faith."
Paul would actually have prayed this daily for the churches he pioneered. Grace and peace are what we all need, and God is the one who answers our prayers.
We can always pray without knowing the specific request for prayer. We can also pray for non-Christians. Non-Christians may think that peace means good things happening. But the greatest peace is the presence of Almighty God.
Let us pray.