パウロの祈り 3


2024年5月26日
聖書:エペソ人への手紙3:14-21

 
 前々回は、祈りは感謝で始まること。そして、祈りは基本的に兄弟姉妹を含め、全ての隣人のためにということでした。前回は、エペソの信徒たちが、自分たちの与えられているものを悟るようにとの祈りでした。救いの確実性、天国の報い、そして、試練の中にあってもそれを乗り越える力があることを悟るように、です。

 覚えていますか。私たちのうちにはダイナマイトのようなパワーソースとそれをエネルギーとして変換できるシステムができているのです。聖霊は神ご自身であり、この方によってどんな環境においても勝利することができる力が与えられているのです。しかし、それに気づかせないようにしている力が働いています。それゆえに、兄弟姉妹のために祈るのです。

 ある人が言いました。天国は長い箸でお互いに食事を食べさせるようなところだ。 皆がお互いのことを考えているので、何の問題もありません。この話には続編があって実は地獄も同じ設定です。しかし、地獄では自分のことしか考えていないので、その長い箸を自分の口に入れることができないので、みんなが飢えているそうです。

 今日は、第三弾として、パウロの祈りの完結編です。とりなしの祈りというと、隣人に起こっている問題や病気のために祈ることを思い浮かべます。しかし、神は全能であり、愛のお方ですので、「神には失敗も、間違いもありません。」神の許可なしに、悲劇や苦難が襲いかかることはありません。祈りは神の計画を変えようとしたり、神と議論しようと祈るのではなく、神の良い計画が実現するように祈るのです。主は祈りを通してご自身の計画を実現されます。ですから、主は祈りを待っているとも言えるのです。 

 私たちは祈りが答えられる、答えられないと言う視点で考えます。しかし、良い祈りを捧げたかどうかの視点で見るべきだと思います。それが主の喜ばれる祈りなのか、どうかです。

 それでは16節から見ていきましょう。 

I. とりなしの祈り「内なる人の成長」
16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

 まず、第一のとりなしは「内なる人を強くしてください」という祈りです。「内なる人」は新生した私たち自身です。聖化はこの「内なる人」が強められ、成長することで起こります。一方で、私たちは外なる人、つまり、罪の性質を抱えています。これは継続的に私たちを欲望に満たし、誘惑に落とし、罪を犯させ、聖化から遠ざけようとします。

 私たちはいつも「霊で生きるか、肉に従って生きるか」を選んでいます。
ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

 ですから、兄弟姉妹がこの世にあって、聖霊の働きをしっかりと受けるように祈るのです。

 主イエスの十字架は、私たちを新生させ、主イエスに似るように聖化するためであり、それが信仰生活の目標なのです。外なる人は肉ですから、病気や老化によって衰えていきます。しかし、内なる人は、聖霊によって強くなり、成長していきます。

2コリント 4:16 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
 
 次に、私たちには霊的な敵がいて、サタンは内なる人を攻撃します。心が否定的になったり、心配し過ぎたり、怒りや憎しみに満たされる時は、霊的な攻撃を受けているのです。しかし、主はそれをある程度許し、それらを使って私たちを聖化するのです。

 誰もが救われた時に「苦難の学校」に入学します。それは、父が内なる人を強め、成長させるためです。聖書の英雄たちは、みなこの学校の卒業生です。アブラハムは忍耐の授業、ヤコブはだまされ奪われる授業、ヨセフは裏切られる授業、モーセは特権を失い何もない生活の授業、ダビデは逃げ惑う授業、ダニエルは捕囚の民として生きるという授業です。彼らはそれらに耐えて、合格しました。新約聖書においても、主イエスと使徒たちを先頭に皆が苦難の授業を受け続けています。

1コリント 10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 
 私たちはまず、内なる人に関心を持たなければなりません。そして、兄弟姉妹がしっかりと聖霊の働きを求めて内なる人を強くするように祈るのです。

II. キリストを心の中心に受け入れる
17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

 二番目は「キリストが心のうちに住んでくださいますように」です。まず、キリストは「救いを受けた者と共にいつもいてくださいます」(マタイ28:20)。神学的には、キリストは神ですから、遍在によって信徒一人一人と共におられるのです。

 しかし、パウロは「共におられる」ようにではなく、「心のうちに住んでくださる」ように祈っています。これは、次のレベルという事ができます。つまり、「キリストを知った」から「キリストを心の中心に受け入れている」という段階です。これは「救い」ではありません。パウロはこの書簡を「信者に向けて」書いているからです。知識で知っている段階から、心で知っている、キリストと共に生きている、キリストを日々体験している段階に上がるのです。ここから信仰生活の醍醐味が始まります。

 住むとはより積極的で、深い関係です。世間でも親しい人とは一緒に住みたいと願います。しかし、シェアハウスではダメです。シェアハウスはプライベート部分と共有部分が分かれています。つまり、「他人には入らせたくない空間」が残っているのです。そこには「人生の妬みや怒り、悪い思いや様々な欲望、習慣的な罪の楽しみ、プライド、名誉欲等」が詰まっています。

 本来、救いとはキリストを主として受け入れる事です。キリストが主であれば、キリストは家の主人であり、キリストはどの部屋にも入れるはずなのです。しかし、罪の部屋の鍵を閉めてシェアハウスにしているのです。しかし、聖霊が主イエスと一緒に住みたいという思いを与えてくださるのです。聖霊の働きを受け続ける事によって、「主イエスの臨在が地上の何よりも優る」事が見えてくるのです。多くのクリスチャンは日常生活に満足しています。「キリストが自分に足りないものを埋めてくれれば良い」と思っています。しかし、主の目から見入れば「裸で孤独で満たされていない状態」なのです。

 黙示録3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

 どんなに多くのものを得て、綺麗な服で着飾っても、内側が罪で汚れていては幸福にはなることはできません。むしろ、内側が綺麗で、それが外側に滲み出てくる人生が幸福なのです。そのためには、キリストを部分的に受け入れてもダメです。本来、キリストは私たちの心の王座に王として来られるべきお方なのです。キリストが住んでくださる人生は、いつもキリストと一緒です。いつもキリストと相談し、キリストが決めます。キリストはかけがえのない存在となり、もはやキリストが居ない人生は考えられなくなります。そして、その人生は豊かなキリストの実を結ぶ人生と変えられていきます。

III. キリストの愛を理解し、知ることできるように
17bまた、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 三番目の祈りは、「キリストの愛を知る」ことです。そのためには、「理解する力」と「キリストの愛を体験すること」です。理解は学びによって得られますが、知る事は体験によってわかるのです。そして、両方がなければ「わかった」事にはならないのです。パウロは18、19節で二つの動詞を使って説明しています。「理解」(18)と「知る」(19)です。

 私たちはキリストの愛を理解しているでしょうか。まず、広さです。主が異邦人を受け入れるという事は、世界のどこに生まれ育った人をも受け入れる事です。その人の先祖がどんなに主に反抗しても、子孫を受け入れる事です。つまり、親の敵を愛するようなことです。愛には差別がありません。もし、差別と偏見があるならば、それは罪であって、愛ではありません。

 次に、長さです。主の愛は永遠です。私たちが肉体をもって存在する前から、私たちを選び、愛してくださっています。罪人の愛は、対象にその土台を置いているので不安定です。しかし、主の愛はご自身の御性質に土台を置いているので変化する事がありません。私たちは生まれてから、この変わらない愛を求めているのです。それは私たちは愛されなくては生きられないからです。しかし、罪人は変わらない愛を与えることはできないのです。それは唯一、神だけが与えることができるのです。

 高さとは、天の祝福を用意してくださる事です。主の愛は、主の御座に共に座らせてくださる恵みです。私たちは地上での聖化にあまりこだわるあまり、栄化を忘れています。栄化とは、神の力によって私たちを罪のないからだを与えてくださる事です。今は努力と選択ですが、その時が来たら努力も選択も必要ありません。今は罪を犯さないではいられない体であり、その時は罪を犯すことができない体が与えられるのです。天は罪の全くない天使が賛美している場所です。そこに私たちも共に集うのです。今は、罪と悪によって心が汚れているので、そこはまぶしく、自分は何と汚れているだろうかと思えます。しかし、その時が来たら神の子どもとして、王と共に御座に着くのです。まさに、乞食を王子、王女にさせる恵みなのです。品格がなく王子王女になるのはみじめです。しかし、品格があっても王子、王女にはなれません。王様の子どもとして生まれなければなれないのです。しかし、私たちはキリストの愛によって王様の子どもにしてもらっているのです。

ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 深さとは、罪の赦しと回復です。この世でどれほどの罪の深みに陥ったとしても、主はその罪を赦し、関係を回復してくださいます。
 
 主の愛は、太陽のように輝いています。しかし、私たちの罪は、雲のようにそれを見えなくふさぐのです。多くの兄弟姉妹が、不安と恐れの中で生きています。自分や他人の罪ばかりが見えて、神の愛が見えなくなっているのです。

次に、「知る」ことです。
19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 知的な理解によってのみでは、キリストの愛を知る事はできません。牧師のメッセージ、他人の証や霊的体験によって「一時的にキリストを知った感覚」に陥ります。それらは役に立ちますが、本質的な事ではありません。

 多くの人は「キリストについて知ろう」としますが、「キリスト自身」を知らなければなりません。キリストを知るのと、キリストについて理解しているのは全く違います。それは、親友や恋人になるプロセスと似ています。その人の情報をたくさん集め、その人の発言を分析して性格や趣味を知る事はできます。しかし、直接会って交わりを繰り返す事なく深い関係に進む事はできません。しかし、地上においては、キリストと直接会う事も話す事もできません。中には「昨日キリストと話した」という人もいますが、神学的に間違っている人や信仰的に不安定な人が多く、それが本当かは疑問が残ります。異端にはそのような人物が多くいます。

では、キリストを知るとはどういうことでしょうか。

 み言葉を読むことです。それもただ読むでのは無理です。静かで集中できる環境で、何回も読み、黙想し、その意味を理解できるように祈りながら読むのです。そして、その言葉を考えながら時間を過ごす事ができなければ主の愛を知る事はできません。

 主イエスの復活後、二人の弟子がエマオに向かっているとそこにイエスが現れました。彼らはイエスが十字架で死んでしまったことに悲しみ、希望を失っていました。彼らはイエスが復活したと聞いたのに、信じることができないでいました。イエスはそんな彼らに旧約聖書から、ご自分のことについて教えました。彼らはイエスを見ても、目が開かれていなかったのです。
 後で、彼らはイエスから聖書を教えられた時のことをこう振り返っています。

ルカ24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

 私たちは聖書を通してキリストを知るのです。聖書はキリストを示し、それによって心が熱く燃えるのです。

最後に、祈りは賛美で終わるのが正しいのです。

IV. 祈りは賛美で終わる
20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

 パウロの祈りが期待と賛美で終えることは、祈りが賛美と感謝を伴うことを教えてくれます。祈りは単なる祈りのリストではなく、三位一体の神との交わりの時であり、その交わりには神学が土台にあります。神は全能であり、私たちは救われて、神の子どもとして父であるお方と話しているという事です。そして、全てのことは主の一方的な恵みによって与えられることです。全ての恵みは、キリストが十字架で成されたみわざによるものです。決して、私たちの行いではありません。そのことによって祈りが賛美に導かれるのです。また、キリストによる愛ゆえに、「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施してくださる」のです。主の愛と偉大さに満たされる時に、私たちは何をそれ以上望むでしょうか。賛美以外にはないのです。

 次に、パウロは、「神はキリストによって栄光を受ける」だけではなく、「教会によっても栄光を受ける」書いています。

 教会は人間の作る団体ではありません。教会はキリストの身体であり、教会は神の言葉である聖書と聖霊の働きによって守られている霊的な存在なのです。また、教会は世に神との和解の方法である福音を宣言し、信徒たちが聖化されていく共同体なのです。教会は神の力によって、地上で神のわざを成すための器なのです。

 私たちは徹頭徹尾、罪人です。ただ、神のあわれみによって生かされ、神の恵みによって救われているのです。私たちが愛せるのは、主イエスが愛してくださることを知ったからです。私たちが良い行ないができるのは、内なる聖霊の働きに従っているからです。教会が神の栄光を表せないのは、自分たちの肉を頼るからです。肉の力ではなく、み言葉と聖霊の働きだけが、私たちを変えていくのです。それを支えているのが祈りです。

祈りましょう。
 父なる神様。私たちを永遠の愛で愛してくださっていますことを感謝します。その愛は聖書を通してわかります。私たちは日常生活の中で、いろいろなメッセージを聞き過ぎて、何が正しく、何が間違っているのを見極める余裕も力のありません。しかし、主の恵みによって、信仰が与えられて、最も尊い福音を悟ることができて感謝します。どうぞ、福音から離れず、福音の上にしっかりと立ち続ける信仰生活をお守りください。そして、いつも祈り、いつも喜ぶことができるように導いてください。み言葉をラブレターのよう何度も読み直し、その意味を熱心に求めることができますように。また、主が祈りを導かれたら、していることをいったん置いてでも祈りの時間を持つことができますように。ある人はこう言いました。「祈る人の人生は、主との思い出がいっぱいある人生だ」と。どうぞ、貴重な祈りのチャンスを無駄にしないように祝福してください。そして、何かの問題の時には、主の前にひざをかがめる私たちになれるように導いてください。


Paul's prayer III

May 26, 2024
Scripture: Ephesians 3:14-21
 
 In the previous message, prayer should begin with thanksgiving. And that prayer is basically for all neighbors, including brothers and sisters. In the previous issue, the prayer was for the Ephesians to realize what they have been given. That they would realize the certainty of salvation, the rewards of heaven, and the strength to overcome even in the midst of trials.

 Remember. We have a power source like dynamite in us and a system that is capable of converting it into energy. The Holy Spirit is God Himself, and through Him we have been given the power to triumph in any environment. However, there are forces at work that keep us from realizing this. That is why we pray for our brothers and sisters.

 Someone once said, "Heaven is like feeding each other with long chopsticks. Everyone is feeding for each other and there is no problem. There is a sequel to this story and actually hell is the same setting. But in hell, they say, everyone is starving because they only put those long chopsticks into their own mouths because they are only thinking of themselves.”

 Today, we have the third and final part of Paul's prayer. When we think of intercessory prayer, we think of praying for problems or illnesses that are happening to our neighbors. But since God is omnipotent and loving, "with Him there is no failure, no mistake." No tragedy or hardship strikes without God's permission. Prayer is not praying to change God's plans or to argue with Him, but to bring about His good plans. The Lord fulfills His plan through prayer. Therefore, we can say that the Lord waits for our prayers. 

 We think in terms of whether our prayers are answered or not. But I think we should look at it from the perspective of whether we offered a good prayer or not. Whether or not it is a prayer that the Lord is pleased with.

 Let's start with verse 16. 

I. Intercessory Prayer "Growth of the Inner Man
16 I pray that out of his glorious riches he may strengthen you with power through his Spirit in your inner being.

 The first intercession is the prayer, "Strengthen your inner man. The "inner man" is our newborn selves. Sanctification occurs when this "inner person" is strengthened and grows. On the other hand, we carry the outer man, the sin nature. This continually seeks to fill us with lust, tempt us, cause us to sin, and keep us from sanctification.

 We are always choosing to "live in the spirit or live according to the flesh.”
Galatians 5:16 So I say, live by the Spirit, and you will not gratify the desires of the sinful nature.

 Therefore, we pray that our brothers and sisters will receive the work of the Holy Spirit firmly in this world.

 The cross of the Lord Jesus was to renew us and sanctify us to be like Him, and that is the goal of the life of faith. The outer man is flesh, and so he deteriorates through illness and aging. But the inner man is strengthened and grows by the Holy Spirit.

2 Corinthians 4:16 Therefore we do not lose heart; Though outwardly we are wasting away, yet inwardly we are being renewed day by day.
 
 Second, we have a spiritual enemy, Satan, who attacks the inner man. When our hearts become negative, worry too much, or are filled with anger and hatred, we are under spiritual attack. But the Lord allows it to some extent and uses them to sanctify us.

 Everyone enters the "school of affliction" when they are saved. This is so that the Father can strengthen and grow the inner man. The heroes of the Bible are all graduates of this school. Abraham had the lesson of endurance, Jacob the lesson of being deceived and robbed, Joseph the lesson of betrayal, Moses the lesson of losing privileges and living without anything, David the lesson of running away, and Daniel the lesson of living as a captive people. They endured and passed. In the New Testament, everyone, led by the Lord Jesus and His apostles, continues to undergo lessons of suffering.

1 Corinthians 10:13 No temptation has seized you except what is common to man. And God is faithful; he will not let you be tempted beyond what you can bear. But when you are tempted, he will also provide a way out so that you can stand up under it.

 We must first be concerned with the person within. Then we pray that our brothers and sisters will firmly seek the work of the Holy Spirit to strengthen the inner man.

II. Accept Christ as the center of your heart
17 so that Christ may dwell in your hearts through faith And I pray that you, being rooted and established in love

 The second is "May Christ dwell in your hearts. First, Christ "is always with those who have received salvation" (Matt. 28:20). Theologically, Christ is God, so He is with each believer by omnipresence.

 However, Paul does not pray that He be "with us," but that He "dwell in our hearts.” This is the next level. That is, from "knowing Christ" to "accepting Him into the center of our hearts." This is not "salvation" because Paul is writing this letter to believers. We move from the stage of knowing with knowledge to the stage of knowing with the heart, living with Christ, and experiencing Christ daily. This is where the best part of the life of faith begins.

 Living is a more active, deeper relationship. We desire to live with those who are close to us in the world. But not in a shared house. In a shared house, the private and common areas are separated. In other words, there are still "spaces you don't want others to enter.” It is filled with life's envy, anger, bad thoughts, various desires, habitual enjoyment of sin, pride, lust for honor, etc."

 Essentially, salvation is accepting Christ as Lord. If Christ is Lord, He is the master of the house, and Christ should be able to enter every room. However, we have made it a shared house by locking the room of sin. But the Holy Spirit gives us the desire to live with the Lord Jesus. By continuing to receive the work of the Holy Spirit, we can see that the presence of the Lord Jesus is superior to anything on earth. Many Christians are satisfied with their daily lives. They think, "All I need is for Christ to fill what I lack.” But in the eyes of the Lord, they are "naked, alone, and unfulfilled.”

 Revelation 3:17 You say, 'I am rich; I have acquired wealth and do not need a thing.' But you do not realize that you are wretched, pitiful, poor, blind and naked.

 But you do not realize that you are wretched, pitiful, poor, blind and naked. Rather, happiness is a life that is clean on the inside and that exudes outwardly. For this purpose, it is not enough to accept Christ partially. By nature, Christ is the One who should come as King to the throne of our hearts. The life in which Christ dwells is always with Him. We always consult with Christ and He decides. Christ becomes irreplaceable, and we can no longer imagine life without Him. And that life will be transformed into a life that bears the fruit of Christ in abundance.

III. that you may understand and know the love of Christ
17b being rooted and established in love, 18 may have power, together with all the saints, to grasp how wide and long and high and deep is the love of Christ, 19 and to know this love that surpasses knowledge--that you may be filled to the measure of all the fullness of God.

 The third prayer is to "know the love of Christ.” To do this, we must have "the power to understand" and "experience the love of Christ. Understanding comes through learning, but knowing comes through experience. And without both, we cannot get it. Paul uses two verbs in verses 18 and 19 to explain this. Paul uses two verbs in verses 18 and 19: "understand" (18) and "know" (19).

 Do we understand the love of Christ? First, the breadth. The Lord's acceptance of the Gentiles means that He accepts a person born and raised anywhere in the world. It is to accept a descendant no matter how much that person's ancestors rebelled against the Lord. In other words, it is like loving the enemies of your parents. There is no discrimination in love. If there is discrimination and prejudice, it is sin, not love.

 Next is length. The Lord's love is eternal. He chose us and loved us before we existed in the flesh. The love of the sinner is unstable because it places its foundation on an object. But His love is unchanging because it is grounded in His own nature. We have been seeking this unchanging love since we were born. This is because we cannot live without being loved. But sinners cannot give love that does not change. Only God can give it.

 The height is that He prepares for us the blessings of heaven. His love is the grace to sit with us on His throne. We are so focused on earthly sanctification that we forget about grolification. Sanctification is God's power to give us a sinless body. It is an effort and a choice now, but when that time comes, there will be no need for effort or choice. Now we have a body that can not stop sinning but when that time comes, we will be given a body that cannot sin. Heaven is a place where angels, totally without sin, are praising. That is where we are gathered together. Right now, it is dazzling because our hearts are polluted by sin and evil, and we think, "How dirty I am! But when the time comes, we will sit on the throne with the King as children of God. This is the grace that makes beggars into princes and princesses. It is miserable to be a prince or princess without dignity. But even if you have dignity, you cannot become a prince or princess. You have to be born a child of the King. But we are made children of kings through the love of Christ.

John 1:12 Yet to all who received him, to those who believed in his name, he gave the right to become children of God--

 Depth is the forgiveness and restoration of sin. No matter how deep we have fallen into sin in this world, the Lord forgives our sins and restores our relationship with Him.
 
 His love shines like the sun. But our sins block it from our sight like a cloud. Many of our brothers and sisters live in anxiety and fear. They see only their own and others' sins and cannot see God's love.

The next step is to know.
19 and to know this love that surpasses knowledge--that you may be filled to the measure of all the fullness of God.

 You cannot know the love of Christ only through intellectual understanding. Pastoral messages, the testimonies of others, and spiritual experiences can give you a "temporary sense of knowing Christ.” They are helpful, but they are not essential.

 Many people want to "know about Christ," but they must know "Christ Himself.” Knowing Christ is quite different from understanding Him. It is similar to the process of becoming a best friend or lover. You can gather a lot of information about a person, analyze his/her statements, and learn about his/her personality and interests. However, it is not possible to develop a deep relationship with someone without meeting them face to face and having repeated interactions with them. But on earth, we cannot meet or talk with Christ in person. Some people say that they spoke with Christ yesterday, but many of them are theologically wrong or unstable in their faith, and it is doubtful that this is true. Heresy is rife with such individuals.

So what does it mean to know Christ?

 First, we must read the Word of God. It is not possible to just read it. You must read it many times in a quiet and concentrated environment, meditate on it, and read it prayerfully so that you can understand its meaning. And if you cannot spend time thinking about the words, you cannot know the love of the Lord.

 After the resurrection of the Lord Jesus, two disciples were on their way to Emmaus when Jesus appeared to them there. They were sad that Jesus had died on the cross and had lost hope. They had heard that Jesus had risen, but they could not believe it. Jesus taught them about Himself from the Old Testament. When they saw Jesus, their eyes were not opened.
 They later recounted the time when Jesus taught them the Scriptures.

Luke 24:32 They asked each other, "Were not our hearts burning within us while he talked with us on the road and opened the Scriptures to us?"

 We know Christ through the Bible. The Bible shows us Christ, and our hearts burn hot because of it.

Finally, it is right that prayer should end with praise.

IV. Prayer Ends with Praise
20 Now to him who is able to do immeasurably more than all we ask or imagine, according to his power that is at work within us
21 to him be glory in the church and in Christ Jesus throughout all generations, for ever and ever! Amen.

 The fact that Paul's prayer ends with expectation and praise tells us that prayer involves praise and thanksgiving. Prayer is not just a list of prayers, but a time of communion with the Triune God, and that communion has theology as its foundation. That God is omnipotent, that we are saved and speak with the One who is the Father as His children. And that all things are given by His unilateral grace. All grace is due to the work of Christ done on the cross. It is never our deeds. It is by this that our prayers are led to praise. Also, because of Christ's love, "He gives abundantly beyond all that we could ever hope or think. When we are filled with His love and greatness, what more do we want? Nothing but praise.

 Next, Paul writes, "God is glorified not only through Christ," but also "through the church.”

 The church is not a man-made institution. The church is the body of Christ, and the church is a spiritual entity protected by the Word of God, the Bible, and the work of the Holy Spirit. The church is also a community of believers being sanctified by proclaiming the gospel, the way of reconciliation with God, to the world. The church is a vessel for God's work on earth through the power of God.

 We are sinners through and through. We are only made alive by God's mercy and saved by God's grace. We can love because we know that the Lord Jesus loves us. We can do good works because we follow the work of the Holy Spirit within. The church fails to display the glory of God because it relies on its own flesh. Only the Word and the work of the Holy Spirit, not the power of the flesh, can transform us. This is supported by prayer.

Let us pray.
 Father God, you love us with an everlasting love. We thank you that you love us with an everlasting love. We see that love through the Bible. We hear so many different messages in our daily lives that we don't have the time or strength to discern what is right and what is wrong. However, through the grace of the Lord, I thank you that you have given us faith to realize the most precious gospel. Please keep us in a life of faith that does not depart from the gospel, but continues to stand firmly on it. And please lead us to always pray and always rejoice. May we read the Word of God over and over again like a love letter and diligently seek its meaning. And when the Lord leads us to prayer, may we put aside what we are doing and spend time in prayer. Someone once said, "The life of a man who prays is a life full of memories with the Lord." Please bless us not to waste precious prayer opportunities. And please lead us to be able to bend our knees before the Lord in times of trouble.