祈りシリーズ3 主の祈りII

2024年4月28日
聖書箇所:マタイの福音書6:11ー13
イントロ:
 先週は主の祈りの前半部分を学びました。
 まず、祈りの優先順位は主の御心がなるようにとのことでした。これがパラダイムシフトであることは先週お話しました。私たちは自分のために生きるようにと教えられてきました。また、自立という意味は誰にも頼らないで生きていくことと考えています。
 しかし、聖書は自分ではなく神の栄光のために生きるようにと教え、また、人は自分の力だけではなく、神の力と神によって与えられる周囲の助けを受けながら生きていくようにと造られているのです。
 祈りで大事なポイントは2つです。まず、誰に祈るかです。私たちは、どこかの彼方にいるかいないかわからない対象に祈るではなく、天地を創造し、私たちを愛しておられる神に祈るです。次に、祈りは神様の対話であることです。祈りは聞いてもらいたいことを神に書いて、それを読んだら終わりではありません。祈りは聖霊の助けによって神と霊的に交わる時間です。
 さて、今日は後半です。後半は私たちの必要のための祈りです。実は、私たちに本当に必要なことは多くはありません。
 祈りというと、あれもこれも全部祈らなければならないと思っている人がいます。しかし、主の祈りを祈るようになると「ここに全てが入っているので、この祈りをしっかりと祈れば良い」とわかるのです。
 もういちどチェック8節を確認しましょう
マタイ6:8だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

 父なる神は必要を知っておられるということです。これは安心を与えるためであって、祈る必要がないということではありません。父なる神は私たちのどんな小さな願いも報告も喜ばれるということです。そして、祈り忘れても大丈夫だということです。

 主の祈りは、前半は神のためです。主の聖なる名前が高められる事。これは私たちが聖化される事で実現します。神の国の民が増えること。これは私たちの宣教で実現します。そして、み心が地上で実現されることです。これは、私たちがみ言葉に聞き従う時に実現します。しかし、これらは日常生活を心配し過ぎたり、忙しすぎたりすると実践できません。それで、そうならないように祈るのが後半の祈りです。
 
 つまり、後半の3つの祈りは、地上で主のために生きるためには、まず肉体の必要が満たされること、そして罪によって汚れた心がきよめられる事、そして、肉の弱さゆえに罪を犯さないように守ってもらう祈りです。

I. 日々の必要の満たしのため
 さて、この祈りは今日一日に必要な食料を与えてくださいという祈りですが、さきほども言ったように、これは肉体的な必要のための祈りです。つまり、衣食住です。
 マルチン ルターは「健康、家庭、良い政府、国の平和」と加えています。

 この祈りのポイントは、必要を求めるのであって、欲望を求めるのではないという事です。欲望とは、肉の欲であって、私たちの心を神様から引き離すものです。

1ヨハネ2:15
15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

 次に、「日ごとに求める」という事です。つまり、主の祈りの前提は毎日なのです。仕事が安定しているからこの祈りは必要ないという事ではなく、家族が守られるように、子どもが守られるように、教会の兄弟姉妹が守られるように、政府が正しい政治を行うように、世界が平和となるように、と日常で私たちが心配するあらゆることを含むのです。

 平和と経済が守られることによって、私たちは霊的な生活を維持することができます。そして、仕事を失った場合にはこの祈りは切実です。「霊的な生活を維持できる良い職場を与えてください」という祈りに変わります。

 いずれにしても、この祈りで私たちの肉体的な必要が満たされ、心を不安にする様々な事から守られ、霊的な生活ができるように、主を礼拝できるようにするための祈りです。
 次の祈りは、誤解しないようにしなければなりません。

II. 日々の罪の汚れを洗い流すため
Ὀφειλέτης(オフェイレテイス):負債。
アラム語 ḥôḇā(ホバ):負債。しかしユダヤ文化では罪という意味。

 なぜ、マタイが負債という単語を使ったのかは、主イエスがアラム語の「ホバ」を使って言い表したのを、同様の意味のあるギリシヤ語を使ったからだと思われます。

 ルカ11:4には、わかりやすく、罪(ハマルティア)という言葉と共にこのオフェイレテイスの動詞形であるὀφείλω(オフェイロー)とともに使っています。つまり、ルカは読者が誤解しないようにはっきりと負債とは罪のことであると書いているのです。マタイはユダヤ人を読者としていますから、できるだけイエスの使った言葉をそのままのニュアンスで示そうとしたのです。
 
 当時のユダヤ文化で負債が罪という意味で使われた理由は、罪は神に対して負債を持つと考えていたからです。つまり、罪とは誰かが支払わなければならない負債です。ですから、罪の赦しとは負債を支払うという意味なのです。旧約時代ではそれを動物の命で支払うように教えました。しかし、動物では人間の罪の負債を支払うことはできません。旧約時代の動物の犠牲は、後にメシアが自分の命をもって罪人の負債を支払うという事を教えるためだったのです。
 
 私たちは生まれてから日々罪を犯し続けています。その支払いはものすごい量になっています。罪のない神の子イエスの十字架によってのみ、私たちの膨大な負債は免除されるのです。

 さて、この12節は、救いに関して言っているのではありません。もし、この12節が救いに関してであれば、救いの条件は隣人の罪を赦す事となり、それは行いによる救いとなってしまうからです。

 聖書は、救いは行いではないと言っています。
エペソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 それに加えて、主の祈りは「天の父に」捧げられる祈りなので、すでに救われた者の祈りです。
 
 では、「私たちの罪を赦してください」とは、どの罪かという事になりますが、この罪とは、私たちが日々犯す罪のことです。

 クリスチャンも日々罪を犯しています。
1ヨハネ1:8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

 ヨハネの手紙もクリスチャンに向けて書いています。ですから、イエスを信じたからと言って罪を犯さなくなるわけではありません。罪の量と質は変わりますが、それでも罪を犯さない日はないのです。その罪に対して、ヨハネは次の節でこう言います。

9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
 つまり、日々罪を犯しているので、日々罪を告白する必要があるという事です。神は告白することで、罪が赦されている確信を与え、悪い思いからきよめてくださるのです。つまり、罪とは犯した後に、心を汚すものなのです。罪を処理しないままでいるとサタンが来て、罪責感を与え、心をかたくなとし、次の罪を犯すように誘惑するのです。聖霊は罪が赦されている確信を与え、心の悪を取り除いてくださるのです。もし、聖霊の働きがなければ、私たちは罪の支配に戻り、罪の奴隷状態となるのです。

 詩篇32篇でダビデはこう表現しています。
3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ

 黙っていたとは、罪に対して何の処置もしなかったという事です。すると、霊的に弱い状態になってしまったという事です。神は罪を憎みますから、神と私たちの壁になるのです。しかし、ダビデは決心して神に告白しました。告白とは謝罪です。主よ、ごめんなさいと謝る事です。すると、赦されたのです。聖霊の働きを受けて、心に平安と喜びが回復したのです。つまり、神との関係が回復したのです。

 二番目に、この祈りは条件のように見えますが、これは英語ではbecauseではなく、asです。
 私が罪を赦したように、私の罪を赦してくださいという事です。

 この12節は言い換えると、「私は救いを受けているので、私に罪を犯す人たちをみな赦しました。同様に、私の日々犯す罪を赦し、きよめてください」という事です。

 ですから、この祈りは、日々自分の覚えている罪を告白するとともに、他人から悪い仕打ちを受けた時にも、それを赦しますというものです。

 ではなぜ、私たちが隣人の罪、つまり、私たちに負いめのある人たちを赦すことが必要なのでしょうか。隣人を赦せるという事は救われているという一つの証拠だからです。
 
 クリスチャンが隣人の罪を赦す動機は、主が自分たちの罪を赦してくださったからです。ですから、主が私たちの膨大な負債を十字架の愛によって支払い、私たちを神の子として受け入れて下さった愛の大きさを知る者が、自分の敵を赦す事ができるのです。
 
 そして、13節です。
 この祈りは、予防の祈りです。12節は現在形。13節はできるだけそうならないように予防する祈りです。

III. 誘惑と悪魔の力から守られるように
 
 Πειρασμός(ペイラスモス):誘惑、試み、試練

 一般的には、誘惑は悪魔によるもので、試みは神によるものと理解しています。それは、日本語の聖書にこうあるからです。

ヤコブ1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
 
1ペテロ4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、

 「試み」という言葉は、英語の聖書ではテスト、またはトライアルです。つまり、神が良い目的のために一時的な試練に合わせるという事です。しかし、そうだとすると、この祈りは神の意思と計画に反する祈りという事になります。
 
 つまり、「試みに合わせないでください」とは、神の主権で与えられるものに対する拒絶なのです。ですから、ここは悪魔から誘惑と考えて良いのです。

 さて、この箇所を良く読むと、主イエスの意図が前置詞into、原語ではeisに現れています。Intoとは、その中に入ってしまうという事です。つまり、中に入らないようにしてくださいという事です。ですから、ここは誘惑の中に入らないように助けてくださいという祈りです。
 
 マーティンロイドジョーンズ牧師は、この箇所をこう解き明かしています。
 「これは私たちの内側の罪の性質を知る人ならば、すでに理解しているという事です。つまり、私たちが誘惑の強いところに行けば、必ず罪の力に負けるという事です。私たちの肉は罪が好きなので、自分の意思や努力によっては、罪に勝つ事はできないのです。ただ、聖霊が働いてくださる時に、私たちは罪を愚かな事と思い、しりぞける事ができるのです。ですから、この祈りは「誘惑の中に入らないようにしてください」であり、同時に「罪の誘惑に用心する事ができるように」との祈りなのです。

 ダビデの失敗を考えてみましょう。ダビデが屋上で、バテシェバの裸を見た事で彼の内側に強い罪の誘惑が起こりました。彼が用心していれば、「これは見てはいけない」とすぐにその場を立ち去ったでしょう。しかし、彼は用心していませんでした。誘惑は彼の心に入り、心が罪の欲望で支配されてしまいました。そして、心が理性を説得します。「私は王様だ。このイスラエルの民に多くの良い事をしてきた。ここで、一人の女性を自分のものにするくらいは許されるはずだ。他の国の王様は気に入った女性を何人も王宮に引き入れているじゃないか。」罪に心を支配されたら、もう自分の力で制御する事はできません。

 これが罪のパターンです。誘惑は心を支配しようとします。つまり、好きになるという事です。次に、支配された心が自分の都合の良い理屈をもって理性を説得するのです。

 多くの知識人、立派な人たちが思いもよらぬ罪を犯すことがあります。なぜ、彼らは理性を使ってそれらに勝てなかったのでしょうか。それは、罪に心が支配されてしまったからです。通常は理性が心を支配します。ところが、誘惑が心を支配すると理性では制御できなくなるのです。

 この祈りは、罪の誘惑に対して用心する祈りです。また、聖霊が罪の楽しみ以上の喜びをくださるようにと求める祈りでもあるのです。

 さて、最後の部分は、「悪からお救いください」です。これはもろもろの悪と考える事もできるし、悪を悪魔と考える事もできます。ギリシア語では男性名詞が使われているので、悪魔と考えても良いかもしれません。この節は、予防の祈りと言いました。それでは、どのように悪魔の攻撃を予防できるのでしょうか。二つの事をお話しておわります。
 
 まず、私たちは悪魔に勝つ事はできません。悪魔に勝てるのは神だけです。主イエスは悪魔の3つの誘惑に勝利しました。そして、ゲッセマネでの祈りから十字架の死に至るまで勝利しました。悪魔はユダを使ってイエスを裏切りさせ、弟子たちに恐怖を与え逃げさせ、イエスを孤独にさせ、不当な裁判をさせ、兵士たちに嘲笑させ、むちうたせ、十字架上の痛みの中で通行人に「神の子ならば、降りてみろ!」と誘惑させました。しかし、主イエスは神なので、悪魔の攻撃と誘惑に完全に勝利して、私たちの救いの道を完成しました。私たちは主イエスのように勝利することはできません。私たちは弱く、自分の心も制御できないのです。

 悪魔の特徴は嘘つきです。偽りの父です。

ヨハネ8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

 悪魔はパリサイ人たちやユダヤ人の目をくらまし、主イエスをメシアとわからないようにさせました。また、彼らのプライドをくすぐり、イエスを憎むようにしむけました。

 だれも悪魔の嘘を見破ることはできません。ただ、聖霊が聖書の言葉を照らしてくださり、聖書を教えてくださる時にのみ、悪魔の嘘はバレてしまうのです。

 ですから、最後の祈りは、悪魔の偽りを見破るために聖書をしっかりと学ばせてくださいという祈りなのです。
 
 もういちど英語の聖書を見てみましょう。
13 And lead us not into temptation, but deliver us from the evil one. (NIV)

 最初はintoで、次はfromです。誘惑の中に入らないように、そして、悪魔の攻撃の中から出してくださいという事です。

 悪魔は恐るべき存在であり、軽く見てはいけません。今世界では、悪魔が友達のようになり、親しくなれるような流れがあります。これこそ、悪魔の嘘なのです。

1ペテロ5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

 この悪魔に勝つためには、いつも神様と一緒にいることです。
 
 主の祈りは暗唱して終わる祈りではありません。私たちの霊的な生活を守るために、いつも祈らなければならない祈りなのです。

父なる神様
 私たちが神の子どもとなり、主の教えて下さった祈りを祈る事ができる事を感謝します。どうぞ、私たちの日々の必要を満たし、心配や恐れから解放してください。また、私たちの心を支配しようとする罪と悪から解放してくださり、私たちをだます悪魔とその悪の力から守ってください。日々主の力に強められて、聖なる御名を高め、御国を実現し、御心を行う事ができるようにしてください。
 神様が私たちの父親である事を感謝します。どうぞ、安心して日々生きる事ができるように祝福してください。また、私たちは日常生活の中でいろいろな人を傷つけ、また、傷つけられながら生きています。聖霊の働きに従い、その人たちを赦す事ができるように祝福してください。

Prayer Series 3, The Lord's Prayer II

April 28, 2024
Scripture: Matthew 6:11-13(NIV)
11 Give us today our daily bread.
12 Forgive us our debts, as we also have forgiven our debtors.
13 And lead us not into temptation, but deliver us from the evil one.

Intro:
 Last week, we studied the first half of the Lord's Prayer. The first priority of the prayer was that the Lord's will be done. We talked last week about how this is a paradigm shift. We have been taught to live for ourselves. We also think that self-reliance means to live without depending on anyone else.

 But the Bible teaches us to live for the glory of God, not ourselves, and that one is planned to live not only in one's own strength but also with God's strength and the help of those around him given by God.

 There are two important points in prayer. First, to whom do we pray? We are not to pray to some object that may or may not be out there somewhere, but to God, who created heaven and earth and loves us. Second, prayer is God's dialogue with us. Prayer is not a matter of writing down what we want God to hear and then reading it. Prayer is a time of spiritual communion with God with the help of the Holy Spirit.
 
Today is the second half. The second half is prayers for our needs. Actually, there are not many things we really need.

 When it comes to prayer, some people think that we have to pray all of this and that. However, when we start praying the Lord's Prayer, we know that "everything is in here, so we just need to pray this prayer well.”
 
Let's check verse 8 again.

Matthew 6:8 Do not be like them, for your Father knows what you need before you ask Him.

This is to give you peace of mind, not to say that you don't need to pray. It means that God the Father is pleased with our every little wish and report. And that it is okay to forget to pray.

 The first half of the Lord's Prayer is for God. That His holy name may be exalted. This will be accomplished in our sanctification. Then, the people of the Kingdom of God will increase. This will be realized through our missionary work. Third, His will be done on earth. This is realized when we listen to and obey the Word of God.

 But we cannot put these things into practice if we are too busy or too worried about our daily lives. Therefore, the second half of the prayer is to pray that this will not happen. In other words, the latter three prayers are for the fulfillment of our physical needs first, for the cleansing of our sin-stained hearts, and for protection against sin due to the weakness of the flesh in order to live for the Lord on earth.

I. For the provision of our daily needs

 Now, this prayer is a prayer to give us the food we need for the day, but as I said before, this is a prayer for our physical needs. In other words, food, clothing, and shelter.
 Martin Luther adds, "health, a home, good government, and peace in the land.”

 The point of this prayer is to ask for needs, not desires. Desire is the lust of the flesh, which separates our hearts from God.

1 John 2:15 Do not love the world or anything in the world. If anyone loves the world, the love of the Father is not in him.
16 For everything in the world--the cravings of sinful man, the lust of his eyes and the boasting of what he has and does--comes not from the Father but from the world.

 Second, we are to "ask daily. In other words, the premise of the Lord's Prayer is daily. This does not mean that we do not need this prayer because our jobs are secure, but it includes all the things we worry about on a daily basis: that our families will be protected, that our children will be protected, that our brothers and sisters in the church will be protected, that our government will be just, that the world will be at peace.

 Peace and economy will be protected so that we can maintain our spiritual life. By the way, if you lose your job, this prayer is earnest. It turns into a prayer to be given a good workplace where you can maintain your spiritual life.

 In any case, this prayer is for our physical needs to be met, to be protected from the various things that make our hearts anxious, and to be able to worship the Lord so that we can live a spiritual life.

The following prayer must not be misunderstood.

II. To wash away the stain of our daily sins
 
Ὀφειλέτης (ofeileteis): debt.
Aramaic ḥôḇā (hoba): debt. But in Jewish culture, it means sin.

 Why Matthew used the word debt probably because the Lord Jesus used the Aramaic word ‘hoba’ to describe it and used a Greek word with a similar meaning.

 In Luke 11:4, plainly, Luke uses the word sin (hamartia) together with ὀφείλω, the verb form of this ‘ofeileteis.’ In other words, Luke clearly writes that debt is sin so that his readers do not misunderstand. Matthew's audience is Jewish, so he tried to present the language as nuanced as possible as Jesus used it.
 
 The reason debt was used to mean sin in the Jewish culture of the time was because they believed that sin was a debt owed to God. In other words, sin is a debt that someone has to pay. Therefore, forgiveness of sin means payment of a debt. In Old Testament times, people were taught to pay it with the life of an animal. But animals cannot pay the debt of human sin. The animal sacrifices of the Old Testament were meant to teach that the Messiah would later pay the sinner's debt with his own life.
 
 We have been sinning every day since we were born. The payment is tremendous. Only through the cross of the sinless Son of God, the Lord Jesus, can our enormous debt be discharged.

 Now, verse 12 does not discuss salvation. If it were, the condition for salvation would be forgiveness of our neighbor's sins, which would be salvation by works.

 The Bible says that salvation is not works.
Ephesians 2:8 For it is by grace you have been saved, through faith--and this not from yourselves, it is the gift of God-- 9 not by works, so that no one can boast.

 And since the Lord's Prayer is a prayer offered "to our Father in heaven," it is the prayer of one who has already been saved.
 
 So, which sins do "forgive us our sins" refer to?

 Christians also sin daily.
1 John 1:8 If we claim to be without sin, we deceive ourselves and the truth is not in us.

 This letter of John was also written for Christians. Therefore, just because we believe in Jesus does not mean that we will stop sinning. The quantity and quality of sin change, but still, there is not a day when we do not sin. To that sin, John says in the next verse

9 If we confess our sins, he is faithful and just and will forgive us our sins and purify us from all unrighteousness.

 We can see from this that since we sin daily, we need to confess our sins daily. By confessing, God gives us the conviction that our sins are forgiven and purifies our hearts from evil thoughts. In other words, sin defiles the heart after it is committed. If we remain in sin, Satan comes and makes us feel guilty, hardens our hearts, and tempts us to commit the next sin. The Holy Spirit convicts us of forgiveness of sins and removes the evil from our hearts. If it were not for the work of the Holy Spirit, we would return to the reign of sin and become slaves to sin.

 In Psalm 32, David expresses it this way
3 When I kept silent, my bones wasted away through my groaning all day long.
5 Then I acknowledged my sin to you and did not cover up my iniquity. I said, "I will confess my transgressions to the LORD,"--and you forgave the guilt of my sin .

 To be silent means that he did not take any action against sin. Then, he became spiritually weak. God hates sin, so it becomes a barrier between God and us. But David made up his mind and confessed to God. Confession is an apology. He apologized and said, "Lord, I am sorry.” Then he was forgiven. He received the work of the Holy Spirit, and peace and joy were restored to his heart. In other words, his relationship with God was restored.

Second, this verse seems to say a condition, but in English, it is ‘as,' not ‘because.’ It means, "Forgive me my sins as I have forgiven you my sins.” Therefore, it is a prayer that we confess our sins that we remember daily and also forgive others when they treat us badly.

 This verse 12 can be paraphrased as, "I have received salvation, and I have forgiven all those who sin against me. In the same way, forgive and cleanse me from the sins I commit every day.”

 So why is it necessary for us to forgive our neighbor's sins, those that are owed to us? Because being able to forgive our neighbor is proof of salvation.
 
 Christians are motivated to forgive their neighbors' sins because the Lord has forgiven their sins. Therefore, those who know the magnitude of the love with which the Lord paid our enormous debt with the love of the cross and accepted us as God's children can forgive their enemies.
 
 Now, finally, we come to verse 13.
 This prayer is a prayer of prevention; verse 12 is in the present tense; verse 13 is a prayer of prevention to prevent that from happening as much as possible.

III. for protection against temptation and the power of the devil
 
 Πειρασμός (Peirasmos): temptation, trial, trial.

 It is generally understood that temptation is by the devil and trial is by God. This is because the Bible says as follows;

James 1:13 When tempted, no one should say, "God is tempting me." For God cannot be tempted by evil, nor does he tempt anyone.
 
1 Peter 4:12 Dear friends, do not be surprised at the painful trial you are suffering, as though something strange was happening to you.

 The word "trial" is used as a test or trial in the Bible. It means that God is putting you through a temporary trial for a good purpose. But if that is the case, then this prayer is a prayer against God's will and plan. In other words, "Do not conform to the trial" is a rejection of God's sovereign provision. So, we can think of this as a temptation from the devil.

 If you read this passage carefully, the Lord Jesus's intent appears in the preposition into, that is, ‘eis’ in the original Greek. Into means to enter into. In other words, he is asking us not to enter into temptation. So here is a prayer to help us not to enter into temptation.
 
 6:13 And lead us not into temptation, but deliver us from the evil one."

 Pastor Martin Lloyd-Jones elucidates this passage, "This is something that anyone who knows our inner sin nature already understands. This means that if we go where temptation is strong, we will always succumb to the power of sin. Our flesh loves sin, so we cannot win over sin by our own will or effort. But when the Holy Spirit is at work, we can reject sin as foolishness. Therefore, this prayer is a prayer to keep us from entering into temptation, and at the same time, a prayer that we may beware of the temptation to sin."

 Consider David's failure. David's seeing Bathsheba naked on the rooftop caused a strong temptation to sin to arise within him. Had he been cautious, he would have immediately walked away, saying, "I must not see this.” But he was not cautious. Temptation entered his heart, which was dominated by the desire to sin. And the heart persuades reason. “I am a king. I have done many good things for the people of Israel. I should at least be allowed to own one woman here. How many other kings have brought into their palaces the woman of their choice?" When sin takes over your heart, you can no longer control it by yourself.

 This is the pattern of sin. Temptation tries to control the heart. In other words, you begin to lust for it. Next, the sin-controlled heart persuades reason with its own convenient logic.

 Many intellectuals and respectable people commit unexpected sins. Why did they not use reason to prevail over them? It is because their minds were dominated by lust. Normally, reason rules the mind. However, when temptation rules the heart, it cannot be controlled by reason.

 This prayer is a prayer of caution against the temptation to sin. It is also a prayer asking the Holy Spirit to give us more joy than the pleasures of sin.

 The last part of the prayer is, "Deliver us from evil.” This can be thought of as a brittle evil, or we can think of evil as the devil. Since the Greek uses the masculine noun, we may think of it as the devil. I said this verse is a prayer of prevention. So, how can we prevent demonic attacks? I will finish by telling you two things.
 
 First, we cannot defeat the devil. Only God can defeat the devil. The Lord Jesus overcame the three temptations of the devil described in Matthew 4. And He triumphed from His prayer in Gethsemane to His death on the cross. The devil used Judas to make Jesus betray Him, to make the disciples flee in fear, to make Jesus lonely, to make Him face an unjust trial, to make the soldiers ridicule Him, to make them whip Him, and to tempt passersby to say, "If you are the Son of God, come down!” But because the Lord Jesus is God, He completely triumphed over the devil's attacks and temptations to complete the way of our salvation. We cannot be as victorious as the Lord Jesus. We are weak and cannot control our own minds.

 The devil is characterized as a liar. He is the father of falsehood.

John 8:44 You belong to your father, the devil, and you want to carry out your father's desire. He was a murderer from the beginning, not holding to the truth, for When he lies, he speaks his native language, for he is a liar and the father of lies.

 The devil blinded the Pharisees and Jews so that they would not recognize the Lord Jesus as the Messiah. He also tickled their pride and made them hate Jesus.

 No one can see through the devil's lies. Only when the Holy Spirit illuminates the words of the Bible and teaches us the Scriptures will the devil's lies be exposed.

 Therefore, the last prayer is for us to learn the Bible well in order to detect the devil's lies.
 
 Let us look again at the English Bible.
13 And lead us not into temptation, but deliver us from the evil one.

 The first is ‘into,’ and the next is ‘from.’ It means, "Do not enter into temptation but deliver us from the attacks of the devil.

 The devil is a fearsome being and should not be taken lightly. Today, there is a trend in the world where the devil has become like a friend, and you can befriend him. This is the devil's lie.

1 Peter 5:8 Be self-controlled and alert. Your enemy, the devil, prowls around like a roaring lion looking for someone to devour.

 To defeat this devil, you must always be with God. So, the Lord's Prayer is not a prayer that ends up being recited. It is a prayer that we must always pray to protect our spiritual life.

Let’s pray
 Father, thank you that we can be your children and pray the prayers that you have taught us. Please meet our daily needs and free us from worry and fear. Please deliver us from sin and evil that tries to control our hearts and protect us from the devil and his evil power that deceives us. Strengthen us daily in His power so that we may exalt His holy name, realize Your Kingdom, and do Your will.
 We thank God that You are our Father. Please bless us so that we can live each day with peace of mind. In our daily lives, we hurt and are hurt by people. Please bless us to follow the work of the Holy Spirit and forgive them.