祈祷会「ダビデ 」 神に選ばれた人

しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル記16:7)

 私たちは生まれてから死ぬまで表面的な姿で評価されます。顔、背の高さ、体型、知恵、肉体的能力、生まれ、財産、学歴、豪華な所有物。ダビデは生まれは8男、職業は羊飼いでした。決して豊かだとは言えない家庭でした。彼は神によって王になるように選ばれましたが、普通の社会では彼に特別な働きが与えられることはなかったでしょう。社会が外見で判断するのは、内面を見る事ができないのである意味当然かもしれません。また、「頑張りで」ある程度の外面的な向上は可能だからです。しかし、天才は聞いただけで全部覚えています。凡才は何もしなければ20分後にはほとんど忘れています。一流のスポーツ選手と普通のスポーツ選手の練習量の違いはほとんど違いがないのです。また、ダビデは美少年と書かれていますが、長男は背丈が高かったとあります。身長は努力ではどうしようもありません。わたしは年をとっても髪の毛が減ることはありませんが、多くの男性にとって髪の毛1本には一万円くらいの価値があります。「見た目が全て」ではないですが、かなりの部分で評価の対象となるのは仕方ないことかもしれません。幸いなことに、神は心を見れる方ということです。そして、心の中を判断する方であるということです。これは、神の前に適当に繕っても無駄ということでもありますが、「内面が素晴らしい人」や「内面を磨いている人」は、たとえ容姿が良くなくても、能力に欠けていても、また、身長が低くて髪の毛がかなり少なくても大丈夫だということです。ある意味、私たちは互いにだましあって生きていると言えます。心の中が見えないからです。憎んでいても愛していると言い、悪に満ちていても義人のように振る舞います。上手に自分をカモフラージュできれば、社会では合格なのです。しかし、神の前では違います。神の前に偽りや嘘は通用しません。では、なぜダビデが選ばれたのでしょうか。清廉潔白だったから?いいえ。嘘、偽りが一切なかったから?いいえ。愛と善行心に満ちていたから?いいえ。一言で言えば、彼が素直だったからです。言い換えれば、ずる賢い心や二心がない人だったのです。彼は神を愛していましたが、神を利用することは一切考えない人だったのです。みなさんはどうですか?心よりも見た目や表面を着飾る努力に疲れていませんか。それらの評価は、時代とともに変わり、ちょっとした失敗で地に落ちます。実は本当に必要なことは、心が変わることです。